昭和十六年(一九四一)三月「国民学校令」が公布され、長いあいだ親しまれてきた小学校の名称がなくなり四月から「国民学校」となった。国民学校は従来の尋常科を改めた初等科六年と、高等科二年とし、高等科修了者のために一年の専修科を設けることができるとした。義務教育年限を八年としたが、戦争激化のために無期延期となり実現をみなかった。国民学校令では教育の目的を、「皇国ノ道ニ則(のっと)リテ初等普通教育ヲ施(ほどこ)シ、国民ノ基礎的錬成(れんせい)ヲ為(な)スヲ以(もっ)テ目的トス」とされた。国民学校教育の中心は皇国民の練成にあったので、いずれの学校も教授・訓練・養護を教育の柱として統一した人格を育成しようとした。また、学校行事・儀式なども重視して、教科の指導とあわせて、これを「国民錬成の道場」として位置づけた。
現長野市域では、後町国民学校が徹底した心身の錬成教育を実践したことで知られている。同校では寒中稽古(かんちゅうげいこ)と称して男子は剣道、女子は薙刀(なぎなた)をおこない、寒中でも素足(すあし)で訓練した。初等科四年から六年までの児童は八幡原(はちまんぱら)まで出かけ、川中島の戦いを再現しようとしたり、三年生以上を対象にしての戸隠神社への参拝競歩大会を強行したりもした。また、校庭に土俵を築き、戸隠に相撲(すもう)道場をつくったりして、国技としての相撲にも力を入れた。校内に忠霊室をつくって戦没者の霊を慰めるとともに、出征兵士に慰問文を送ったり、遺族の家への勤労奉仕などもさかんにおこなった。
更級郡篠ノ井町の通明(つうめい)国民学校では、国民学校発足後の校務分担に新たに訓練係が設けられ、児童心得・儀式行事・団体訓練・清掃訓練・食事訓練・勤労作業訓練・防護用訓練・避難訓練・少年団訓練などの指導を担当することになり、まさに学校は皇国民の錬成の場となった。また、時局係は軍人援護教育を推進し、忠霊室を設けて戦没者の霊をまつり、敬神崇祖(けいしんすうそ)の念を深め、尽忠(じんちゅう)報国の精神を養う活動を担当した。さらに、職業指導係は、義勇軍送出・慰問の活動を中心に進路指導にあたった。とくに、体錬科を重視して、積極的に相撲・薙刀・剣道・柔道などをとりいれ、昭和十六年七月には、相撲道場をつくって学校をあげて国技を奨励した。また、同校では「児童心得」を作成して、児童錬成の一日として、起床洗面から就寝までの生活の一こま一こまについて、微細なきまりをつくって規制しようとした。たとえば、登校のさいは「二列ニ揃ッテ左側通行、歩調合ワセテサッサト歩ク、知ッタ方ニハ元気ナ敬礼、神社ノ前デハ脱帽拝礼。校門ニ入ッテマズ一礼、奉安殿(ほうあんでん)ニハ最敬礼、履物(はきもの)揃ヘテ(雨具モ)帽子モ正シク」などと決められていた。
更級郡教育会では、郡をあげて高等科男子による伝統的な兵式運動会を挙行した。これは、甲乙丙丁戊(こうおつへいていぼ)の支会ごとにそれぞれ中隊を編成して、川中島平で決戦をするという軍事演習であった。この日にそなえて、各校は軍事訓練を重ねて運動会を盛りあげた。その中心校の役割を果たしたのが通明国民学校であった。
戦時下の国民教育のなかで重視されたのは、国民学校教育と直結しておこなわれた青年学校教育であった。青年学校の教育は、「満州事変」(昭和六年)の四年後に始まり、初めは窮乏(きゅうぼう)する農村更生の中堅青年の育成を使命としたが、日中戦争中は満州開拓、太平洋戦争下には銃後の生産と戦力増強など、国策に応じた教育に転じた。
いっぽう、中等学校においても、太平洋戦争直前の十六年十一月二十七日、学校教錬の教授要目が改正され、その内容はきわめて詳細で実戦的なものに変えられ、その成果は毎年秋に実施される査閲(さえつ)によって評価された。査閲は配属将校の評価でもあり、成績如何(いかん)はその学校の評価ともなり、年間の学校行事のなかでももっとも重要視された。
また、太平洋戦争開戦後の昭和十七年十一月には、県下中等学校連合演習が県下四地区でおこなわれ、北信地区は長野盆地において実施され、そのようすを『信毎』は「信濃全山を震振(しんしん)し 肉弾相搏(あいう)つ攻防戦」と報道した。そして軍による査閲や実戦的な演習などの軍事的基礎能力の育成に力点が置かれた。女子もまた、防空頭巾と国民服で、地域の防火・看護・避難訓練に参加している。
いっぽう、十八年から本格的になる市内国民学校の上級生をふくむ青年学校・中等学校生徒などの勤労奉仕活動は、十九年にいたり「緊急学徒勤労動員方策要綱」や「学校工場化実施要綱」などにより、より組織的、継続的な学徒勤労動員へと強化され、正規の授業は放てきされた。
昭和十九年度における、市内中等学校などの一ヵ月以上の長期学徒動員先は表27のようであった。