太平洋戦争の末期、昭和十九年(一九四四)十月四日、松代町隣接の西条村宮沢村長に、突然県から出頭命令がきた。県庁では大坪長野県知事から、「軍参謀本部の命令により、本土決戦にそなえ西条村を防衛の根拠地とするため、入組および筒井組集落の民家立ちのき」の要請が告げられ、非常時下その要請に協力を求められた(これは松代倉庫工事の開始命令「マ(一〇・四)工事」によるものであった)。村長はただちに翌五日、村民を国民学校講堂に招集した。この席へは軍部の陸軍建設部加藤少佐以下数人の将校と県職員数人も参加して、参集の村民にたいし、「現在は内地決戦の非常体制下であり、必要により当村に軍施設の建設を実施するよう、命令により出張してきた。要請に協力をお願いする」とし、図面を開いてその企画範囲は赤線内全区とした。すなわち、「西条村山林全部六〇二町歩(約六〇二ヘクタール)立ち入り禁止、買収は田畑六七町二反歩(約六七ヘクタール)、ほかに宅地一万九九八二坪(約五万二八五〇平方メートル)。家屋は入組および筒井組一三〇世帯全部で、筒井組二〇戸は一週間以内に、入組一一〇戸は月末までに転出」という膨大な計画と、なお「建物はもちろん庭木・庭石等いっさい現状のまま買収に応ずるよう」との説明がなされた。あまりのことに村民は声もなかったが、しばらくして場内は騒然とした。加藤少佐は「この施設は将来歴史にのこる施設である。誠(まこと)にご同情に耐えないが日本帝国のため承認せられたい」とじゅんじゅんと説き、村民は「勝つためなら、軍の命令なら仕方がない」と、この突然でしかも膨大な要請を承諾せざるを得なかった。そして、両組の引っ越しには村民一同が総決起して参加協力し、引っ越し先は村内に求め、蚕室(さんしつ)や納屋(なや)で都合のつくかぎり受け入れすることを決議した。
これ以後、工事の資財運搬が始まり国鉄各線から屋代駅へ、そして電鉄松代駅へと運ばれ、そこからは工事現場近くの開善寺前にできた製材所や鉄工所に自動車が列をなして運んだ。さらに、関連地下壕(ちかごう)と労務者の飯場(はんば)用地として、西条村をはじめ清野(きよの)村・豊栄(とよさか)村でも用地の買収がおこなわれた。家屋や土地の買収には軍部が県係員とともに買収家屋の調査と評価をおこない、宅地田畑などは台帳にもとづいて軍部から代金が支払われた。
工事名と位置は、イ号倉庫の象山地下壕は清野村と西条村に、ロ号倉庫の舞鶴(まいづる)山地下壕(仮皇居・大本営大坑道)は西条村に、ハ号倉庫の皆神山(みなかみやま)地下壕は豊栄村と東条村に、それぞれまたがっていた。
こうして、工事最初の発破(はっぱ)がかけられたのは十九年十一月十一日であり、以後、その爆発音は北信一帯に連日のようにとどろいた。大本営とその関連施設の計画は、その後、松代地区にとどまらず、表28のように北信の各地におよぶものであったが、その掘削(くっさく)工事の主要な労働力は日本国内にいた朝鮮人労働者と、当時植民地であった朝鮮半島から強制連行された人たちによるもので、合わせて多いときは約七千人といわれている。このほかに東部軍作業中隊などの日本兵と周辺の市町村から徴用された国民勤労報国隊・大学高専生徒と地元中等学校生徒・国民学校児童などが勤労奉仕に駆りだされていた。しかし、この大本営計画は、約八〇パーセントできたところで、二十年八月日本の敗戦により未完成で中止された。
いっぽう、長野飛行場は、昭和十四年三月に市の民間飛行場として開設が認可されたが、同年七月には長野市から逓信省に献納されて政府直轄のものになっていた。さらに十六年太平洋戦争が勃発(ぼっぱつ)し、戦況の悪化にともない十九年の秋大本営をはじめ国の中枢(ちゅうすう)機関を松代地下壕に移す計画が始まると、大型航空機の発着可能な飛行場が必要となり、長野飛行場の滑走路をさらに北がわへ約三〇〇メートル延長する工事が開始されていた。また、飛行機を格納し、隠すための掩体壕(えんたいごう)も三十余ヵ所につくられていた。
アメリカ軍は日本の軍需施設の破壊をねらっており、艦載機(かんさいき)は二十年八月十三日朝から一〇機前後の編隊で、午前六時一五分ころ上田に機銃掃射や爆撃を加え、その後六時五〇分ころからは長野に攻撃を集中し、前後六回にわたって午後三時五〇分ころまで、通算六十余機が執拗(しつよう)に機銃掃射や爆撃をつづけた。飛行機はグラマンF6F戦闘機とボートF4U戦闘機であった。
この空襲では、飛行場だけにとどまらず現長野市域の各地にわたり、死亡者や家屋の焼失など大きな被害をうけた。その被害の状況は、当時の長野市事務報告書やその後の各方面の調査などにより、しだいに明らかにされている。とくに、民間団体「長野空襲を語り継ぐ会」の調査で、表29に見られるように死亡者数(四六人)や被害状況が詳細に判明してきている。
長野市は空襲後、罹災(りさい)家庭にたいし、その状況により最高一〇〇円・最低三〇円の見舞い金を贈呈している。その受給は、全焼全壊家屋三〇戸・半焼半壊家屋一二戸・その他の家屋一〇戸・死亡者一一人・重傷者四人であり、また表30のように戦災者用として繊維製品と応急薬品を無料給与した。
政府は、翌十四日の御前会議でポツダム宣言の受諾を決めたが、ここにいたるまでには、戦争継続論や条件受諾論・無条件受諾論などに天皇制存続論もからんではげしい対立があった。しかし、八月十五日正午に天皇の敗戦を告げる詔書が放送され、日本の戦争は終わった。
この日正午、長野飛行場近くで艦載機の空襲をうけた大豆島国民学校(校舎二棟爆弾投下で破壊、児童は夏休みで休校)の職員一同は、警防団小屋前に集合整列して、敗戦の放送を聞いた。また、若槻国民学校では夏休み中であったが、十七日午前七時四〇分全校児童と青年学校生徒が登校し、講堂で「終戦の大詔(たいしょう)奉読式」をおこない、同日から二学期の授業を再開した。