昭和二十年(一九四五)八月十五日、太平洋戦争の敗戦を告げる天皇のラジオ放送で戦争は終わった。この敗戦までの長野には、日本陸軍の長野連隊区司令部が置かれ、また、戦局が悪化した二十年二月からは、それまでの東部軍管区の下に長野師管区が新設されていた。この師管区の新設は、軍管区と行政協議会の行政区域とを一体化して戦局に対応するため置かれたものであった。
長野に連合国軍ベンヂゾム中佐ら一七人が初めて入ったのは九月十五日であったが、これは新潟・東北方面を視察するため、五台のジープで軽井沢から上田市をへて長野師管区司令部に立ち寄り、目的地に向かう途中であった。そして、二十七日ライディング代将らのジープ三台が諏訪・松本を経由して長野へ来ることになると、県内の要所ごとに警官を配置し、長野市の犀北館(さいほくかん)を宿舎に指定した。このあと代将からは、武器弾薬などの隠し場所の質問がおこなわれるなどのことがあった。二十九日には松本市・上田市などに、まず進駐(しんちゅう)軍の先遣(せんけん)隊が入った。それに合わせて、長野にも進駐軍が入ってくるため、地元の準備として管内各市町村長あてに「労務者確保のため町村内在住者のうち、出動見こみ者」の調査報告が求められた。これにたいし、松代町長は年齢二五歳から五三歳までの男性四人の候補者を報告している。この労務者確保はこのあとも再三にわたり各町村に求められたが、その職種と労務賃金は表31のとおりで、職種は多様で、労賃については時間外や技能給などが配慮されていた。
長野県庁には、十月八日アメリカ軍ハーズブルック代将らが訪れ、進駐軍の長野県進駐について、場所は長野市と上田市の鐘紡(かねぼう)工場、松本市の旧五十連隊跡をあてること、司令部は長野市におくことなどが求められ、いよいよ進駐軍を迎えいれることとなった。
十月十日には、鐘紡長野工場の工場建物と附属建物の大部分が接収されて進駐軍が入った。このあと鐘紡長野工場には十一月二十日、長野進駐軍司令部(長野軍政部、部長コルソン中佐)が置かれ軍政任務についた(『アメリカ国立公文書館複写史料』)。松本と上田には支部が置かれた。
長野市に軍政部が進駐してからも、旧日本陸軍の長野連隊区司令部は二十年十一月三十日、旧日本陸・海軍省の廃止までは、戦没兵や復員兵の恩給、英霊(えいれい)の返還・出迎え儀式、遺族援護などの業務を引きついで執務していた。しかし、十二月からは連隊区司令部の業務のすべてが県庁内長野世話部に引きつがれた。
初期軍政部の占領政策は、いわゆる民主主義政策の推進であり、とくに二十年九月末からは、はやくも旧軍国主義的な制度や慣行(かんこう)の廃止・指令事項の徹底取り締まりがはじまった。国民学校・中等学校・青年学校にたいしては、軍事教育・戦時体練・教練・武道などを禁止し、教科書不適切部分の墨(すみ)ぬりが指令された。さらに修身・国史・地理科授業が停止され、また、国旗掲揚(けいよう)停止が命じられた。つづいて政治・経済・社会・文化すべての分野にわたって指令が矢つぎ早に出されたが、これら指令のすべてがかならずしもスムーズに実行されたわけではなかった。二十年秋ごろから復員軍人や軍属の姿が町や村に多くみられるようになったが、軍服軍帽(ぐんぷくぐんぼう)などそのままのものもあった。そこで、十二月十四日には国旗掲揚について「許可アルマデ掲揚停止」が指令され、同月十七日には警察署を経由して各町村長あてに、軍の袖章(そでしょう)や階級章などの除去徹底が通達された。
昭和二十一年一月には、進駐軍に一部組織がえがあり、鐘紡長野工場内には米第八軍軍政部長野隊が置かれ、諏訪市湖柳(こやなぎ)町片倉貴賓館(きひんかん)内に同隊の長野支隊が置かれた。また、野尻湖には休養所もできた。
いっぽう、連合国最高司令官総司令部(GHQ)直属の対敵(たいてき)情報機関(CIC)が長野市三輪田町の飛島組(とびしまぐみ)栄庄之助宅(のち信州会館)を接収し、本部(ストラットン憲兵(けんぺい)大尉)を置いた。長野警察署には憲兵(MP)が常駐した。しかし、同年四月には、はやくも松本・上田の進駐軍支隊(支部)が廃止され、長野市に軍政部と対敵情報機関が残り占領行政を推進した。このあと同年七月に進駐軍の組織がえがあり、総司令部の下には、軍政団軍政部、地方軍政本部が置かれ、その下に県別の軍政部が組織された。長野軍政部第二代教育部長として、ウィリアム・A・ケリーが着任したのもこの時期である。これに合わせて、二十一年十二月二十六日には、すでに工場など大部分が接収されている鐘紡長野工場では社宅四棟が追加接収され、さらに翌二十二年九月には社宅一棟が追加接収されている。
知事の上に絶対的権力をもって君臨(くんりん)する長野軍政部は、鐘紡長野工場のほぼ三分の一を占め、軍政部長コルソン中佐、次長ストラットン少佐(のち中佐)以下、数十人の士官・下士官・兵が駐屯(ちゅうとん)して、自動小銃をもった門衛(もんえい)が入り口に立って厳重に警戒する治外法権(ちがいほうけん)区域になっていた。
こうして、これ以降占領政策は広範にわたって展開されるが、昭和二十四年七月一日全国的な占領政策の転換と組織がえにより、長野軍政部も民事部と改称され、さらに、同年十一月三十日長野民事部も閉鎖廃止となった。これにより連絡官三人を残して民事部も長野から引きあげた。あとの指導監督はすべて関東地方民事部(東京)に引きつがれた。鐘紡長野工場は二十五年二月二十日、まず工場関係と女子寄宿舎が返還された。二十六年九月に講和条約と日米安全保障条約が調印され、二十七年(一九五二)日本占領がすべて終わるのにともない、残りの軍政部関係施設全部が同年六月二十二日までに返還された。