連合国最高司令官総司令部(GHQ)は日本に進駐してまもなく、昭和二十年(一九四五)十月四日に戦争犯罪人容疑者の逮捕にのりだし、公職追放については二十一年四月の選挙から立候補者の資格審査を国から県・市町村にまで広げた。
公職追放の範囲は、軍国主義者・職業軍人・教職員・国家主義団体幹部・国会議員および地方選挙立候補者・市町村長・統制団体幹部などまでおよぶものであった。その方法は、公職適否審査委員会の審査によった。
長野県審査委員会は、県弁護士会長兼県労働委員会中立委員赤羽根銀作・県農総務部長小松直人・長野地裁判事草間英一(委員長)・長野女専校長佐藤貞治・評論家高山洋吉のほか、臨時委員として民生委員神方敬勝・県水産業会専務理事楠慶治の七人により構成された。二十二年八月までに四八回の委員会を開催し、一万九六四六人につき審査をとげたが、なお未決定一人があった。
長野市の審査委員会は、酒類販売業青山伊助・民生委員町田耕之助・蚕種業竹内五郎・判事梅原松次郎・長野逓信局員吉岡昇の五人で構成された。
長野市では、二十一年四月十九日高野忠衛市長が任期満了となり、次期市長立候補者は高野のほか笠原・松橋・花岡の四人が立ち、改選は旧法(市会議員のみの投票)でおこなわれた。その結果、高野が最高点で再選されたが、これは当然「公職適否審査」の対象とされ、市長就任の確定は審査の結果待ちとなった。二ヵ月後の六月二十一日、いったん「就任認可」の指令があり、二十四日初登庁して執務を開始した。ところが、五ヵ月後の十一月十一日公職追放が決定し、高野市長は内務大臣に辞表を出して辞任した。高野市長の辞任後、小出助役の任期も一ヵ月後の十二月二十五日に満期となるため、このまま放置すれば市長は当然職務管掌(かんしょう)となり、旧法により監督官庁(県)派遣の官吏が市長職務執行となる。市会ではそれは望まず、代理市長によるか職務管掌による代理助役によるか対策を練ることにし、十二月二十六日(助役満期翌日)松橋久左衛門が臨時市長代理者として、第一回公選までの間を条件に就任した。
昭和二十二年四月五日、戦後初の第一回市町村長公選がおこなわれ、長野市長には松橋久左衛門が当選した。現長野市域の選挙結果は表32のようであるが、これによれば、追放令以後第一回公選までの間には、総計三七市町村のうち、九市町村(二四パーセント)が公職追放を予想して首長の改選がおこなわれ、第一回の公選では二八市町村(七六パーセント)の首長が改選されたため、合わせてすべての市町村が新たな首長にかわった。
公職追放は、国政・県政から市町村にわたって、きびしい影響をおよぼしたが、以後二十四年二月から二十五年十月の間二度にわたって公職資格訴願(そがん)委員会が設けられ、追放処分の再審査の道が開かれた。これにより全国でおよそ二〇人に一人の割合で追放解除がおこなわれた。しかし、そのいっぽうで二十五年六月には、連合国最高司令官総司令部が初期の追放とは異なる方針に転じ、日本共産党幹部の追放処置などいわゆる反共政策にも利用された。二十六年に入ると講和準備の進展と並行して占領政策の緩和(かんわ)とともに、追放令の内容を緩和する改正がおこなわれた。そして二十七年四月二十八日サンフランシスコ講和条約の発行と同時に追放制度は消滅した。
婦人参政権獲得(かくとく)の運動は、戦前の大正十年(一九二一)前後から昭和初年にかけて、平塚らいてう(らいちょう)・市川房枝らによって長野県下でもすでに始まっていた。長野市のクリスチャンで廃娼(はいしょう)運動にたずさわる小笠原嘉子や埴科郡坂城町の児玉勝子らは市川らに共鳴して、昭和四年(一九二九)十二月の長野県議会にたいして「女子参政権意見書」を提出してその採択(さいたく)を迫るなど、多くの女性たちの運動がみられた。意見書はこの県議会で採択となったが、これは翌五年五月の衆議院での婦人公民権案(地方議会での選挙権・被選挙権を認める)が採択されるより前で画期的なことであった。しかし、このような運動の高まりも、昭和六年満州事変からのいわゆる十五年戦争のなかで陽の目をみることができなかった。
婦人参政権については、連合国最高司令官総司令部の戦後改革の要求にもとづき、昭和二十年(一九四五)十二月十七日の帝国議会による衆議院議員選挙法の改正で「男女二〇歳以上の選挙権と二五歳以上の被選挙権」が議決され、初めて婦人参政権が実現した。戦後初の衆議院議員選挙は翌二十一年四月十日に実施された(県投票率女性六七パーセント強、男性八〇パーセント、平均七二・九パーセント)。この選挙は全県一区の大選挙区で、長野県定員一四人、投票は三名連記であった。女性候補は安藤はつ一人だけであった。安藤は、静岡県出身で同県の教員養成所を出て二年間教職に勤務したあと、終戦直前に長野市大門町へ疎開していた。日本平和党を名乗って出馬し、一三万三九四五票の大量得点でトップ当選した。全国でも八三人の女性候補者のうち三九人が当選した。しかし、翌二十二年四月の第二三回衆議院議員選挙(県投票率七四・二パーセント)では、選挙法の改正により、長野市は上水内郡・更級郡・上高井郡の範囲で第一区の中選挙区となり、倉石忠雄・小坂善太郎・本藤恒松の三人が当選し、安藤はつは六一八七票で落選した。この年の県会議員選挙での女性候補は、長野市で船坂千代、上水内で岡本いさを、更級郡で窪田けさいの三人が立候補したが、いずれも落選した。