農地改革と食糧増産

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昭和十三年(一九三八)四月公布の「農地調整法」は、戦時農業統制の一環として、地主と小作の地位の安定と農業生産力の維持増進をはかる目的でつくられたが、地主の自作化にたいして優先権をあて、小作人にたいする土地取りあげに抜け道を与えるなど、小作人にとっては大きな限界をもつものであった。敗戦後の農村は、復員・帰農・疎開者などの膨大な農村人口を擁(よう)して、食糧増産の必要に迫られ、その面からも農地の調整や農地改革は差しせまった問題であった。

 このような状況のなかでおこなわれた戦後の農地改革は、戦前の土地政策につづく一面をもってはいたが、実際は、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策五項目の一つである「日本産業機構の民主化」によるもので、もう一つの財閥解体とともに、戦前日本の経済構造を大きく変革し、現代日本農業の出発点ともなるものであった。

 昭和二十年(一九四五)十二月から、いわゆる第一次農地改革案として日本政府は、①自作農の創設(期間五ヵ年)、②小作料の金納化、③市町村農地委員会の刷新、を柱として議会討議に付したが、討議の過程で地主階層の力に押されてほとんど骨抜きのものとなっていた。そのため、この改革案はGHQには認められず、あらためて第二次農地改革案が二十一年九月、農地調整法改正案と自作農創設特別措置法案として提出され、十月議決された。この主な内容は、つぎのようなものであった。

 ①地主が村に住んでいない場合は小作地の全部について、②地主が村に住んでいても小作地だけの場合は一世帯あたり平均一町歩(約一ヘクタール)、北海道は四町歩をこえる分について、③地主が村に住んでいて自作を兼ねている場合は、小作地と合計して一世帯あたり平均三町歩をこえる分について、それぞれ政府がすべて買収する。そして、自作農創設の期間を二ヵ年に短縮し、改革の実施は各市町村の農地委員会が政府にかわっておこない、農地委員会の構成は地主三人・自作二人・小作五人とし、小作人の立場が強化された。

 この改革法は、戦後のインフレ状況のなかで、地主からの買収価格はもちろん小作料もきわめて低額に固定されたため、実質的には「無償買収」および「小作料の廃止」に近い効果をもつことになった。しかし、改革の実施期間が二年間とされ、その責任を負った農地委員会の仕事はたいへんであった。

 その実施状況は、小田切村農地委員会の記録によれば、二十二年度からの委員会は表33のようであり、その作業の順序は、まず、①農地の買収計画をたて、それを縦覧告知する(地主は異議の有無を申しでる)、つぎに、②農地の売渡し計画をたて、それを縦覧告知する(小作人は希望の有無を申しでる)のくりかえしであり、小田切村では二十三年末までには、特殊なものを除いて買収・売渡しはほとんど完了した。


表33 小田切村農地委員会の内容と回数

 こうして、改革はすすめられたが、とくに地主がわからは、買収計画がすすまないうちに小作地を取りあげたり、何かと理由をつけて小作地を手元に残す願いや申し出がなされた。しかし、農地改革は国の強い主導のもとにおこなわれ、図46のようにどの町村でも、ほとんど予定の期間に小作地の買収・売渡しは完了した。


図46 農地の買収売渡し実績例(昭和24年3月31日)
(『長野県における農地改革』により作成)

 そして表34の例では、改革前と改革後を比較すると、自作農地は六九パーセントから九〇パーセントに増加し、逆に小作地は三一パーセントから一〇パーセントに減少している。


表34 芋井村の農地改革前後の比較

 農地委員会は、農地改革の一応の完了にともない、二十四年六月に改組され、さらに二十六年三月農業委員会法の公布により、農業調整委員会と統合されて農業委員会となった。

 いっぽう、食糧増産については、戦後における極度の食糧不足と農業生産力の弱体化のなかで、生産者からの供出の確保は困難になっていた。そのため国は、二十三年七月「食糧確保臨時措置法」を成立させ、自治体には農業調整委員会を置き、計画的な供出数量を義務づけることにした。

 また、二十二年からは年度ごとに「食糧供出運動実施要領」を出して、その責任者は町村長とし、実施には町村吏員・農業調整委員・町村会議員などをあてた。供出は、米・麦のほか馬鈴薯(ばれいしょ)・甘藷(かんしょ)なども割りあてられ、その成績に応じて報奨物資を出したり、特殊な展覧会などへの入場券を出したりして割りあて供出の奨励完遂をはかった。

 寺尾村では、昭和二十三年度の麦・馬鈴薯の供出完遂者に報奨物資として、点数に応じてリヤカータイヤ・自転車タイヤ・同チューブ・地下たび・軍手などが出されている。また、長野市では同二十四年の平和博覧会の開催にあわせ、供出量一〇二パーセント以上で超過量(米四斗以上)の者に抽選で博覧会の招待状を出していた。