戦後インフレ下の市民生活

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昭和二十年(一九四五)八月の敗戦以降は、疎開者(そかいしゃ)のほかに復員軍人・海外引揚者などで、戦時中より人口が増加した。二十年の農村は、戦時中の労働力不足で田畑の手入れが行きとどかず、肥料不足で地力が低下していたところへ、春以来の低温多雨の天候不順と収穫期の水害によって、大正二年(一九一三)以来三三年ぶりの凶作(きょうさく)となった。長野県はもともと県内産の米では需要(じゅよう)を満たせない米の移入県であったので、凶作のため二十一年には食糧の配給もとどこおり、食糧難となって人びとは飢餓(きが)状態におちいった。

 人びとは食べる物を求めて、農山村や山野、露店の闇市(やみいち)(青空市場)などへ出かけた。当時の県内六市の闇(やみ)価格の変動は表35のようで、一年間に主要生活品の大部分は、数倍の価格にはねあがっている。農山村への買い出しには、金銭のほかにたんすの中の衣類なども持っていって物々交換(ぶつぶつこうかん)をした。衣類などを少しずつ食糧にかえていく生活は、竹の子の皮をはぐように身につけた物を生活費にあてたので、「タケノコ生活」ともいわれた。食糧不足を補うために、さつま芋の茎や山野のよもぎ・山ぶき・わらび・ぜんまい・こごみから、あかざ・すべりひゆ、令法(りょうぶ)の木の葉、さらに動物のへび・どじょう・たにし・蚕蛹(さんよう)まで食べた。食糧不足と闇価格の高騰(こうとう)によって、市内の生活困窮者(こんきゅうしゃ)は増大した。一般生活困窮者のほかに、復員軍人・海外引揚者・軍人遺家族・傷痍(しょうい)軍人・在外者留守(るす)家族・失業者などの生活はきびしさを増した。


表35 戦後1年間の県内6市の闇価格

 長野市議会は、二十年十月に戦後対策委員会を設け、突発的なことに対処し、諸相談に応じるようにした。さらに、一日二合一勺(しゃく)の配給では食べていけないとして、二合五勺に引きあげるよう政府に陳情した。そして、長野市は大豆島(まめじま)村とともに長野飛行場土地耕作組合を設け、十一月十六日から耕地づくりに着手し、二十一年四月までに五万坪(一六・五ヘクタール)を耕地化する計画をたて、麦のまきつけをおこなった。

 昭和二十年十一月に野菜・魚介類の公定価格の枠(わく)がはずされ、自由販売が認められた。そこで、長野市農業会は二十三日一〇時から上千歳町の農業会前で、一人あたり漬菜(つけな)一貫匁(かんめ)(三・七五キログラム)・他の野菜五〇〇匁(もんめ)を販売した。七〇〇人の市民が押しかけ、一時間ですべて売りきれてしまった。りんごは農業会発行の配給券(一人五〇〇匁)によって、できるだけ病人や妊産婦の手にわたるようにした。しかし、この自由販売も生産者からの運びこみが少ないのに、市民が早くから詰めかけ、買えない無駄並(むだなら)びが数百人も出ることになって、まもなく取りやめとなってしまった。食糧難について、二十年十一月の『信毎』は、「オカラへ布(し)く長蛇(ちょうだ)の列」という見出しで「飢(う)えた民衆は、食糧といえば見さかいなく何にでも飛びつく」として、自由売買されるおから一人四〇〇匁一〇銭に、長い行列ができたことを写真入りで報じている。

 昭和二十一年六月二十四日県立図書館で、食糧危機突破長野市市民大会が開かれ、①食糧の遅配(ちはい)・欠配(けっぱい)をおこなわない、②安心して食べられる物を配給すること、を決議した。さらに、生活必需物資配給協議会(市会議員一一人・区長九人)が設けられた。のちにこの協議会には、人民委員会・婦人会・青年会の代表一〇人を加え、三〇人態勢で活動した。八月十日に輸入放出食糧の長野市分一二五〇トン(小麦一二〇・とうもろこし七〇〇・小麦粉四三〇)が入り、市民に配給された。この秋はさつま芋・雑穀が豊作となり、配給も十一月にはこれまでの二合一勺から二合五勺になり、新潟米も救援米として入ってきて、食いつなぐことができた。

 敗戦による物価の高騰(こうとう)が生活費を圧迫し、賃金の引き上げや預金の引き出しとなって通貨が膨張(ぼうちょう)した。さらに、政府の軍需会社への未払い金の整理、軍人軍属の復員手当てなどがインフレに拍車をかけた。敗戦時の通貨流通量三〇〇億円が八月末には四二〇億円、十二月末には五五四億円、金融緊急措置令(きんゆうきんきゅうそちれい)実施直後の二十一年二月十八日には六一八億円と、半年で二倍以上の発券高となった。

 そこで政府は、二十一年二月十六日に大蔵大臣が「わが国民経済は、ついに悪性インフレーションの段階に、突入せんとするにいたった。このことは国民各位が、日々の生活において痛切に体験せられていることであり、政府としてはここに重大なる措置を断行するの決意を傾けるにいたったのである」という談話を発表して、インフレ防止対策を打ちだした。政府のインフレ対策とした金融緊急措置令および日銀券預入令は、同年二月二十五日以後、これまでの流通貨を新円と引き加え、余剰(よじょう)通貨を封鎖(ふうさ)して、通貨量と食糧費・生計費・賃金・主要物資のあいだに均衡(きんこう)を得させようとするものであった。新円は家族一人一〇〇円とし、給与の現金支払いは五〇〇円までとして、預貯金を封鎖した。旧円(日本銀行券)の使用は三月三日以降は禁止とした。しかし、インフレはつづき、家計の赤字は増えた(表36)。


写真145 新円発行の報道記事


写真146 昭和21年発行の新紙幣
(八十二文化財団所蔵)


表36 長野市の闇価格と公定価格