第二次世界大戦後の日本の教育方針を定めた教育基本法と、新しい教育制度の諸法が制定され、学校教育は六三三四制となった。この制度のうち、小学校のつぎの六年間の教育を青年前期・後期に分け、旧制の中等教育を改造して、前期の中学校を義務制とした。後期の高等学校は原則的に男女共学とし、教育の機会均等のため、全日制と勤労青年の定時制・通信制を設けた。
新学制の発足は、義務制の小中学校が昭和二十二年、高等学校が二十三年、大学が二十四年の学校種別進行でおこなわれ、初年度長野市とその周辺(現市域)の義務制小中学校の状況は表37のようであり、盲ろう児の教育も義務制となった。
小学校は国民学校の初等科を新制に移行したが、中学校の新設は戦争で疲弊(ひへい)した市町村に重い負担となった。大きな戦災をまぬがれた長野県であったが、県当局と長野軍政部は、新制中学校の設置と新制高等学校を重視して、新学制実施準備協議会の設置を急がせた。長野県は全国にさきがけて準備協議会を発足し、長野市は昭和二十三年二月市内一二地区(うち一校区は師範附属)に地区協議会を設け、各地区代表二人による中央協議会が構成された。協議会の中心議題は、独立新制中学枚の創設と旧市立中学校の県立移管、市立実科高等女学校の新制高校への改編であった。
長野市周辺(現市域)の町村がとった中学校設置方策は、旧国民学校の校舎を使って小中学校を設置し、教室と備品を配分し、特別教室を共用するのが一般であった。小規模の中学校は教科担任の組織と運営がむずかしく、文部省は組合立とすることを勧奨した。これをうけた川中島・中津・御厨(みくりや)村学校組合立川中島中学校は、資材不足のなかで新制中学校の条件に適合した校舎を建築して、北佐久郡軽井沢中学校とともに文部省からモデルスクールの指定をうけた。
長野市は小中学校を独立校舎とする方針で、既存の校舎を小中学校に分配する方針をとった。実施準備協議会は附属学校の教育実習に必要な学級数の調整をはかって、市立新制中学校は柳町・後町・川端とつづいて東部中学校を吉田小学校に暫定的に併設することとした。そして、二十五年には東部・西部・南部中学校の校舎造改築に着手して、通学区域を再配分した。これにともなって後町中学校は小学校となった。アメリカ視察から帰国した松橋市長は、西部中学校を米国式プラツーンシステム(移動教室式授業形態)の三階建て鉄筋コンクリート造り、スチーム暖房・水洗便所などの最新設備とし、文部省からモデルスクールの指定をうけている。
新制中学校の設置にあたって、義務制の学校長数が倍増し、教員の需要が急増して、中等教育の教科担任制に必要な有資格教員が不足したため、教員人事の質的低下はまぬがれなかった。また、教師は新教育の導入で、カリキュラムやガイダンスなどの新しい専門用語とその実践に悩まされることとなった。
旧制県立中等学校の新制高等学校への移行は、全国と同様であったが、昭和二十三年四月新制高校として発足するにさいし、新制中学二年生と三年生に該当する生徒がいた。これらの生徒はいずれも当該新制高校に併設の中学校として置かれ、学年進行で新制高校へそのまま進学して移行していった。長野市内でこれに相当する新制高校は、長野北高校(前長野中、のち長野高校)、長野西高校(前長野高女・第二高女合併)、長野商業高校(前長野商業学校)、長野工業高校(前長野工業学校)、上水内農業高校((前上水内農学校、のち長野吉田高校)であった。このほか旧制長野市立中学校は、二十三年四月長野市立高等女学校と形式統合して、長野市立高等学校として発足した。しかし翌二十四年四月普通科男子が、県立長野北高校へ編入したため、長野市立高等学校は被服科のみ長野市立高等学校となった。なお、現市域では、松代高校(前松代商業学校)、篠ノ井高校(前篠ノ井高女)、更級農業高校(前更級農学校)であった。
長野県民が待望した信州大学は、新制移行最後の年二十四年六月に、国立で発足した。本部と医学部(前松本医専)、文理学部(前松本高等学校)を松本市に置き、長野市には教育学部(前長野師範)と工学部(前長野高工専)が設けられた。上田市に繊維学部(前上田蚕専)、上伊那郡南箕輪(みなみみのわ)村に農学部(前上伊那農専)が置かれて、学部分散の「たこ足大学」となった。
戦後新教育改革の現職教育が始まったのは、昭和二十四年七月十一日から五日間、山王小学校で開催された文部省主権・CIE賛助の東海北陸地区小学校研究集会であった。長野会場は全国八地区の一つで、集まったのは七県(福井・石川・富山・静岡・愛知・岐阜・長野)二四〇人、うち長野県は五〇人で、会名はワークショップの訳語「研究集会」が初めて使われた。日程は公開授業と授業研究会、班別研究と講義で構成され、新教科の社会科の授業を「導入・展開・終末」の過程で三日間演示し、基礎教科と芸術・体育の授業が公開された。視聴覚教育・ガイダンスなどの班別研究もあって、新教育の実際を実演する効果的な現職教育であった。このあと各郡市で小・中・高等学校別の研究集会が開かれ、長野市では二十五年十一月三日から三日間、小学校は鍋屋田小学校、中学校は柳町中学校で、長水の高等学校は一月二十八日から二日間おこなわれ、全員出席で免許法認定講習の単位が与えられた。
長野県学習指導要領を作成するため、県は審議会を設け、二一人の委員と教科別九分科会を設けて、昭和二十七年に『長野県小学校学習指導要領試案』、二十九年に『長野県中学校学習指導要領試案』を完成した。しかし、このとき学習指導要領は国の基準であり、文部省だけが作成するという法改正があって、長野県の指導要領は指導書に変更された。長野県はすでに新教育の実験学校を二十四年に創設し、第一次実験学校が九月十五日に指定された。現長野市域の指定校は山王小学校・後町中学校・長野商業高等学校・上水内郡朝陽小学校・更級郡下氷鉋(しもひがの)小学校・通明(つうめい)中学校であった。各校は自校が選んだ研究テーマの公開研究会を開き、あわせて小・中学校では信濃教育会教育研究所が作成した基準カリキュラムを実験評価して、県の学習指導要領作成の資料として提出し、また、教科別の学習能力の発達を共同研究して、同様に長野県学習指導要領の資料とされた。実験学校は、四十二年の八次まで指定され、以後名称が研究指定校と変更されている。
戦後の教育は、明治初年の「学制」以来の大改革であった。新制移行後五〇年間の市内学校数の推移は表38のようである。