文部省が初めて公民館の構想を発表したのは、昭和二十一年(一九四六)四月二十四日に東京で開催した「公民教育指導者講習会」であった。この構想はさらに具体化されて同年七月に「公民館の設置運営について」として、全国の市町村にその設置がすすめられた。
長野県での公民館設置と活動は全国的にみてきわめて早かった。それは二十一年四月に県社会教育課が「社会教育実施計画案の構想」を作成し、その趣旨・管理運営などを具体的に説明したことにあった。この構想では、まだ「公民館」の名称はなかったが、これにより県内では各地域で文化協会・文化会などの名称で、住民の自主的な社会教育活動が始められた。
更級郡篠ノ井町は、二十一年六月に町文化協会の設立準備会を開き、同年七月二十八日にははやくも設立総会をおこなった。会長は町長で、青年団・婦人会など各種団体の代表を理事とし、事業執行の担当は、宗教哲学・教育・生活芸術・音楽・美術などの部が分担した。内容は、学習希望調査・秋季夜学講座・文化祭・製パン講習・婦人家庭講座などがあり、いずれも二十一年七月から二十二年三月までのあいだに実施していた。この間二十一年十一月松本市で、長野・新潟・山梨の三県を対象にした文部省の「公民館設置促進研究協議会」が開かれた。これに参加した篠ノ井文化協会の代表が「公民館は自分たちの活動と同じである」と報告し、全国的に注目された。
県は、二十一年九月九日県報で「公民館設置要項」を示し、長水地区では二十二年度中には、ほとんどの市町村で公民館が設置された。
長野市では、長野軍政部教育課のウィリアム・A・ケリーから「市は率先して完備した公民館を設置するよう」すすめられており、二十一年十一月二十九日から十二月四日まで各団体別の趣旨(しゅし)徹底準備会を開き、二十二年七月十七日第一回準備委員会をへて、二十二年十二月二十日には青年団・婦人会・教育会・文化団体・体育団体・民主団体共同闘争協議会・市議会の各代表に地域代表を加え、第一回運営委員会を開いた。この会で館長に松橋市長を選任し、この日を公民館開設の日とした。しかし、まだ公民館の専用建物はなく、二十年代の後半までは市役所内の一室や城山公園の商品陳列館(CIE図書館、のち日米文化センター)の建物などを転々と移転して過ごした。
郡部の現長野市域の町村でも、初めは公民館建物はなく小学校や役場内に事務所を置き、館長には多く町村長や学校長が選任され、また書記には役場職員や小学校教員をあてたものもみられた。
公民館の組織や活動が本格的に整うのは、昭和二十四年六月「社会教育法」が公布され、同年十二月それにもとづく公民館規定・同運営審議会規定・同分館規定などが制定されてからである。ところが長野市では、同年開かれた平和博覧会のため公民館建物はアメリカ文化館に使用され、同時に公民館の役員や職員が博覧会職員を兼ねたため、活動の開始はおくれて同年夏ごろからであった。
二十四年度のおもな事業や活動は表39のようであるが、「成人の日」は二十四年一月十五日から国民の祝日の一つとして定められ、各地で盛大に成人式が挙行された。しかし、当初は「成人」の基準がまちまちで満二〇歳、満一八歳、あるいは男満二〇歳、女満一八歳などであった。これは児童福祉法で児童を成人と分け、児童は一八歳未満のものと定めていたためであった。また、満二〇歳にしても、前年の一月十五日に満二〇歳に達したものか、当年内に満二〇歳に達するものかのちがいもあった。長野県庁は前者であり、長野市公民館では後者であった。
二十五年(一九五〇)十月長野市公民館運営審議会が設置され、各種諸団体からも公民館の専用施設の要望や専任館長の必要が叫ばれ、二十六年六月一日に元初代副館長の矢ヶ崎賢次が選任館長に委嘱され、事務室も市役所内旧市長室に移転してようやく独立の一室を確保した。そして二十七年十一月以降は教育委員会の発足により、公民館はその管理下に置かれた。
ところが、二十八年九月、長野市公民館にとって思わぬ幸運なことが起こった。CIE図書館(日米文化センター)がアメリカ大使館との契約を更新して市公民館に置くことになり、館内に「アメリカ文化部」として資料が引きつがれた。これは当時の公民館にとっては県内外に比して、アメリカの文物に恵まれた特別なことであり、公民館活動にも先進的な運営が展開された。たとえば、文化センター引きつぎのアメリカ製視聴覚機器や資料の活用がなされたり、また、成人学級や講座の学習に映写機やフィルムの貸し出しをおこない、さらに、この上映の円滑を期するため、映写技術者の養成にもつとめた。その結果三十数人の技術者が分館に配置されて、新しいかたちの公民館活動が広められた。