二度の市町村合併で大長野市へ

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敗戦後、復興にはげむ市町村にとって、自治の確立が大きな課題であった。しかし、当時の地方自治体にとっては、物資不足・インフレ・人口増のうえに、義務教育六三制の実施にともなう新制中学校の設置や市町村消防・自治体警察・公民館・生活改善・保健福祉など、財政上の能力にとぼしいものが多く、国や県からの新たな事務や権限を円滑にうけいれる自治体の体制整備が必要であった。

 そこで、昭和二十八年(一九五三)九月一日、国は「町村合併促進法」を公布し、同年十月一日施行した。これは新制中学校が合理的に運営できる人口規模という観点から、全国一律に人口八〇〇〇人を標準として、町村の合併をすすめるというものであった。また、これは急を要する点から、この法の有効期限を昭和三十一年九月三十日までとし、この三年間に全国の町村数をおよそ三分の一に減らすことを目途(もくと)とした。これにあわせて県も同年十月「長野県町村合併参考案」を発表した。

 しかし、この法よりも先、すでに長野市周辺の町村では表40にみるように、二十五年七月一日には更級郡篠ノ井町周辺、二十六年四月三日には埴科郡松代町周辺で町村合併がおこなわれた。これらはいずれも、自治体財政の窮迫(きゅうはく)から合併にいたったものであった。そして、二十九年以降三十一年九月までの間には、幾多の困難な争論をへながらも、現長野市域の上水内郡・更級郡・埴科郡の各市町村では、ほとんどが合併促進法の有効期限内に合併がおこなわれていた。わずかに更級郡塩崎村と上高井郡綿内・川田・保科村の合併がおくれていた。

 昭和三十一年六月三十日に国は、これら合併促進法の期限切れにそなえて、「今や、大勢は町村合併から新市町村建設の段階になった」として、「新市町村建設促進法」を公布、即日施行した。これは、新市町村の育成発展の方策を示し町村合併にともなう争論の合理的処理と未合併市町村の合併を強力に推進するため、さらに、知事や内閣総理大臣の勧告権を規定して、市町村合併の総仕上げをしようとするもので、その期限は三十六年六月三十日までとした。この新法の刺激(しげき)もあって、三十四年四月上高井郡三村合併による若穂町が設置され、同年五月篠ノ井町と塩崎村の合併による篠ノ井市が設置されたのである。この両法の促進法により昭和二十年代末から三十年代前半までの合併により、現長野市域では、町村数がおよそ五分の一に減少した。

 戦後二度目の長野市大合併の構想は、昭和三十七年十月市が広域都市の建設をめざして近隣市町村に合併をよびかけたことから始まっていた。しかし、本格的に動きだすのは、昭和四十年三月二十九日国が「市町村の合併の特例に関する法律」通称「市町村合併特例法」を施行してからである。

 この法より先、長野市では交通の発展や産業経済の進展から広域的な行政の体制をつくる必要があるとして、近隣の市町村だけでなく、南は更埴市・上山田町・戸倉町、西は七二会(なにあい)村・戸隠村、北は中野市・山ノ内町・牟礼(むれ)村、東は須坂市・若穂町などにおよぶ人口四五万人ほどの大長野市の合併構想をもっていた。

 ところが「合併特例法」が施行されると、四十年四月長野市は現長野市域に豊野町を加えた二市四町三ヵ村による任意の合併促進協議会を発足させた。しかし、最終段階で豊野町は加わらず、四十一年十月十六日二市三町三ヵ村の大合併(表40)が成立した。新長野市の人口は二七万余人(図47)で、全国五六〇市のうち、これまでの七〇番目から三二番目の都市となった。


表40 長野市域の戦後市町村合併の経緯(昭和25年~45年)


図47 長野市の人口・世帯数・面積の推移 (『長野市統計書』より作成)