商工業の発展と交通・公害問題

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わが国の昭和三十年代から四十年代は、四十八年(一九七三)十月の中東戦争による石油危機(原油価格三〇パーセント引き上げ・一〇パーセント供給減による石油ショック)まで、経済の高度成長期であった。昭和四十年(一九六五)のいわゆる「四十年不況」をはさんで、三十年代を第一次高度経済成長期、四十年代を第二次高度経済成長期ともよんでいる。一次成長期はGNP(国民総生産)の実質成長率年平均九・七パーセント、二次成長期のそれは一〇・八パーセントという急成長であった。この間の好景気については三十年・三十一年「神武(じんむ)景気」(三十二年は停滞で、「なべ底景気」)、三十四年・三十五年「岩戸(いわと)景気」、三十九年「オリンピック景気」、四十年下半期から四十六年半ばまで「いざなぎ景気」とそれぞれの好況に名前がつけられた。

 長野市は、好況のなか昭和三十六年(一九六一)四月から五月に、長野市産業文化博覧会を善光寺開帳にあわせて、城山公園一帯を会場にして開催した。同年雲上台・地附山頂間(山頂には遊園地)に善光寺ロープウェイを設置して運転を開始し、翌年には大峰山に天守閣型展望台を完成させて、観光産業にも力を入れた。

 高度経済成長は大量生産・大量消費をもたらし、小売り業界には大量仕入れ、大量販売の波が押しよせた。大型店の市街地への進出では、昭和三十二年に昭和通りに丸光百貨店(五十八年「丸光そごう」に改称)が開業し、筋向(すじむ)かいに丸善(三十七年に百貨店認可、四十一年に駅前に移転し、四十五年「ながの東急百貨店」と改称)が開業した。このころから、昭和通り新田町交差点の自動車や人の交通量が急増し、スクランブル交差点(全方向の一斉横断)が設けられた。昭和四十三年にはヴィーナスが問御所町に、四十五年にほていやが権堂町に、同年長崎屋が石堂町に出店した。中央通りの商店街は三十四年に後町まで連結したアーケードを設置し、権堂通りも三十六年までに全面アーケードを完成させ、三十九年には南石堂町がアーケードを設置して、買物客や飲食客の誘致をはかった。しかし、しだいに人の流れは、大門町・権堂町から若者向けの店の多い昭和通り・長野駅付近に変わっていった。また、新しい住宅団地が郊外に造成されるにしたがい、団地内や周辺に商店や大型店が開設された。


写真149 新田町X字型(スクランブル)交差点 (昭和46年)

 生鮮食料品を中心とした物流も、市内の権堂町・千歳町の繁華街では、交通渋滞(じゅうたい)・騒音(そうおん)・衛生上で問題となり、長野中央市場共同組合が中心となって、四十年に若里の市有地に「青果水産物市場団地」を完成させた。四十三年には、市場中心のボランタリー・チェーンを発足させ、各店が独自性を保ちながら互いに連携し、商品の計画的共同発注・仕入れによる価格引き下げ、経営の合理化をはかるようにした。この年、長野駅の貨物取り扱いが廃止され、北長野駅が貨物駅として営業を開始した。また、市内東町・権堂町・長野駅西口周辺に散在していた卸売(おろしうり)問屋も、事業・敷地建物の拡大、物流・交通の便宜から郊外の広い場所を求め、長野総合卸商業組合三一社が四十八年七月には川合新田に総合卸団地「長野卸センター」(平成五年、長野アークスと改称)を完成させた。


写真150 若里・川合新田の市場団地・卸団地

 長野市は、昭和二十九年に工業振興条例を施行し、工場誘致(ゆうち)特別委員会を設置して、工業振興と工場誘致に力をそそいだ。市の誘致によって、電気機器メーカーが工場を建設して、電子機器・通信機の製造を始めた。市内の工業は、三十五年では業種別に生産の多い順にみると、食料品製造・出版印刷・繊維・金属・電気機械器具・木材木工となっていたが、二〇年後の五十五年には長野日本無線・富士通長野工場・新光電気工業などの成長により、電気機械器具・電子機器がトップとなっている。三十七年には条例を改正し、工場団地の造成、工場誘致の推進、工業用水の確保、中小企業への特別金融措置、労働福祉センター設置に力を入れた。

 昭和三十七年に中小企業の近代化をはかるために、長野木工事業協同組合が市に働きかけ、北長池・南長池の地に約三万坪の土地を入手して、四十年七月に長野木工団地を設け、一六の企業が工場を建て貯木場・乾燥場・倉庫・家具センターなどの共同施設の活用で合理化をすすめた。四十四年には約四〇社の工場・店舗が新築された。五十年代に入ると、郊外の風間・若里地区などに工業団地が造成されはじめ、五十九年五月には完売する。

 高度経済成長とともに、人体被害や環境破壊につながる公害(騒音、排気ガス、畜舎の悪臭と汚水、し尿処理、河川の汚染(おせん)、農薬の薬害(やくがい)、光化学スモッグ、ごみの不法投棄(ふほうとうき)、粉塵(ふんじん)、煤煙(ばいえん)など)が問題となってきた。長野市は昭和二十九年(一九五四)に騒音防止条例を定め、市騒音防止委員会を組織し、指示騒音計も購入した。三十三年には市内五ヵ所をノークラクション地域に指定し、いわゆる「かみなり族」を取り締まった。昭和四十一年日本の自動車生産高は世界三位となり、カラーテレビ・カー・クーラーが「新三種の神器」といわれた。自動車・オートバイの増加とともに、交通混雑・騒音・排気ガスと交通事故が問題となってきた。この年の全国の交通事故死者は一万三九〇四人となり、交通戦争の語が生まれた。長野市内の四十年代以降の交通事故は表41のようである。


表41 長野市内の交通事故

 長野市では、昭和三十七年四月に長野市安全会議を発足させ、交通・産業・学校の安全などに力を入れた。四十二年十月には交通災害共済制度を設け、一日一円の掛け金で保障を始めた。同年には市交通安全推進委員会を発足させ、歩道橋・カーブミラー・ガードレール・道路標識や子どもの遊び場づくりの設置につとめた。昭和四十四年に妻科公園に交通教育広場が設けられた。同年四月、市は社会部に八人態勢の交通公害対策室(翌年に課、四十六年に交通対策課と公害課に分離)を設け、交通安全対策係と公害対策係の二係をおいて対処した。四十五年には長野市公害防止条例と長野市公害対策審議会条例を定めた。四十五年から交通安全のため、全入学児童に黄色の帽子を贈り、児童生徒の登下校時には車の規制をおこない、四十七年から学校付近にスクールゾーンを設けた。さらに、バス停づくり・道路照明や標識・カーブミラー・ガードレールなどの設置につとめた。