住宅団地の造成と農山村の過疎化

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国が昭和二十五年(一九五〇)の住宅金融公庫の設立、二十六年に公営住宅法を定めたことにより、長野市は市営住宅を計画的に建設してきた。空襲を一度うけただけの長野市も、高度経済成長による農山村からの移住・核家族化などにより、きびしい住宅不足はつづいた。二十六年以降の市営住宅の建設状況は表42のようである。


表42 市営住宅管理戸数一覧

 市営住宅との重なりもふくめて、昭和三十年代から県企業局などの宅地造成による県営住宅・分譲住宅・自己資金住宅の入りまじった住宅団地が郊外につぎつぎとつくられていった。市は、昭和三十年に住宅対策審議会を設置して、住宅対策に取りくんだ。昭和三十五年には、すでに六五〇世帯の住む大住宅団地となった柳町団地のほか、三十年代から四十年代にかけてたくさんの住宅団地がつくられた。五十五年に人口一〇〇〇人以上になっている団地は、若槻(わかつき)団地・浅川西条・上松・杏花台(きょうかだい)・犀北(さいほく)・伊勢宮・小市南(こいちみなみ)・宮沖・駒沢新町・西三才(にしさんさい)・犀南(さいなみ)・みこと川などである。このうちの若槻団地は三十八年に県企業局が面積一〇万坪・住宅一〇〇〇戸を目標に、商店街・公園・保育園などを設備した住宅地を企画し着工したもので、五十五年には一〇八三世帯・三六五六人の大団地となっている。


写真151 ベッドタウンといわれた柳町団地

 長野市では、都市開発をすすめる市街化区域と開発を制限する市街化調整区域を決め、農地転用に歯止めをかけ、都市周辺開発が虫くい状態になるのを防ぎ、図48のように五地域に分け、各地域の特性を住宅整備に生かすようにした。大型団地の増設にともなう人口の急増のなかで、保育園・幼稚園や遊び場の不足、小中学校の教室不足、道路や駐車場不備、バス路線問題、近隣農地の農薬、河川流域の水害対策などさまざまな問題が出てきた。住宅はしだいに、量から質の向上が求められ、老朽化(ろうきゅうか)した木造住宅から、建てかえによる中層耐火構造の住宅が増加している。


図48 市住宅マスタープラン 市内を市街地Ⅰ・同Ⅱ・農山地域・犀南地域・松代若穂地域の5地域に分け、各地域の特性に応じた住宅整備を行う
(『長野市住宅マスタープラン』平成11年より)

 好景気による都市部の商工業化の進行は、農山村からの大量の賃金労働者を都市へ集めることになった。昭和三十五年から五十年まで五年ごとの、長野市の産業別・専兼業別農家数などの変化は図49・50のようである。農業所得より農業外所得のほうが上まわる第二種兼業農家の割合は、長野市域では昭和三十五年に三八・二パーセントだったのが、五十年には七五・一パーセントにもなっている。二、三男や娘たちが勤めに出るだけでなく、長男や世帯主まで勤めに出るようになった。かあちゃん・じいちゃん・ばあちゃんによる「三ちゃん農業」、主婦だけによる「かあちゃん農業」ということばも生まれた。


図49 長野市域の産業別就業者数の推移 (国勢調査各年により作成)


図50 長野市域の専兼業別農家数・農家率の推移(農業センサス各年により作成)

 長野市域の産業別就業人口に占める第一次産業人口の割合は、昭和三十五年の三四・七パーセントから五十年には一五・八パーセントに低下した。人手不足では農作業はすすまず、好景気のなかで農業の手間賃も高騰(こうとう)した。人手不足を補い能率をあげるために機械化をすすめたが、農業機器購入のため、さらに勤めによる現金収入が必要ともなった(表43)。


表43 篠ノ井信里の農機具の普及