松代群発地震と水害・地すべり災害

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 松代群発地震の概要は表44のようである。松代町では地震発生の約二ヵ月後の昭和四十年(一九六五)十月十一日、松代町地震対策本部を設置して防災体制をしき、同年十一月二十五日までに、当時の長野市・篠ノ井市・更北村・若穂町・川中島町・信更村・七二会村の各市町村に地震対策本部が設置された。関係各町村は応急措置としてプレハブ校舎の建設などをすすめた。四十一年十月市町村合併にともない長野市地震対策本部に統合されて防災活動が推進された。


表44 松代群発地震の概要

 政府は、昭和四十年十一月三十日に「松代地震対策連絡会議」を開き、瀬戸山建設大臣を団長とする現地調査団を十二月一日に派遣し、地元の要望などを聴取した。翌四十一年四月二十二日には、松代地震政府調査団が、五月十九日には、佐藤首相がそれぞれ現地を訪れて関係者からの陳情を受けた。また、皇太子は七月二十六日、松代町を訪れ、東条小学校のプレハブ校舎を視察、子どもたちを励まされた。

 長野県は四十一年四月一日、県庁内に長野県松代地震対策本部を設置し、現長野市域を中心に三九市町村を対象に対策事業をすすめた。その中心は応急仮設住宅六二〇戸の建設をはじめとする住宅対策であった。

 いっぽう、国は四十一年八月、河川施設の改良補強費などに計一億一〇〇〇万円を計上し、これによって松代町の蛭(ひる)川、神田(かんだ)川や若穂町の保科川などの改修補強工事がおこなわれた。

 松代群発地震は、昭和四十四年四月長野市での震度4を最後に、終息状態に入った。長野市は、四十五年六月五日「松代群発地震終息宣言」を発表し、同月十六日に関係市町村が加盟する松代群発地震対策協議会を解散した。

 昭和二十四年(一九四九)以後の長野市域の風水害の主なものは表45のようである。これらの風水害の特色の第一は、その原因のほとんどが台風であること、第二はそれによって犀川や千曲川、その支流が堤防の決壊などで氾濫し、被害を大きくしたことである。

 戦後、長野市域における地すべりの被害は、昭和六十年の「地附山(じづきやま)地すべり災害」を除いて大規模なものはなかった。平成六年二月に、信更町虚空蔵(こくぞう)山中腹、涌池五輪林沖(わくいけごりんばやしおき)の地すべりがあり、これは長さ一五〇メートル、深さ五~一〇メートルの規模で五世帯に避難勧告が出された。また、古くから地すべりの常襲地であった篠ノ井共和地区の茶臼山(ちゃうすやま)の地すべりは、昭和四十二年ごろから地下水の排除工事がおこなわれ、五十年ごろから急速に安定してきた。七二会倉並(くらなみ)地籍の地すべりも、昭和四十一年度から集水井工事がすすめられ、土砂の滑落を防いでいる。

 昭和六十年(一九八五)七月二十六日午後五時ごろ、地附山の南東斜面で、大規模な地すべりが発生した。その規模は幅約五〇〇メートル、長さ約七〇〇メートル、深さ最大約六〇メートル、面積約二五ヘクタールに達し、動いた土の量は推定約三六〇万立方メートルという膨大なものであった。崩落する土砂によって湯谷(ゆや)団地の家々が襲(おそ)われていくなか、関係地域の六〇五世帯、一九三二人の住民が避難した。地附山地すべり災害でもっとも悲惨だったのは、避難指示が出されず入所者二一九人のうち犠牲者二六人を出した特別養護老人ホーム松寿荘(しょうじゅそう)の老人たちであった。昭和六十年十一月に長野県が発表したこの災害の人的被害は、死者二六人、重傷一人、軽傷三人で、住居被害は全壊五〇棟・四七世帯一五七人、松寿荘五棟、一部破損九棟・九世帯三二人であった。湯谷団地住民有志による損害賠償の提訴から一〇年後の平成九年(一九九七)六月、長野地方裁判所から判決があった。その要旨は「バードライン設置に瑕疵(かし)はなかったが、県は道路周辺の排水設備の不備や斜面の不安定化が明白になってからも改善せずその結果地すべりを引きおこした。原告全員に総額五億四〇〇万円を支払うよう命ずる」というものであった。


写真152 地附山地すべり災害と湯谷団地
(『真夏の大崩落』より)

 長野盆地は、千曲川・犀川の合流する地であり、この両大河に周囲の山地から裾花川・浅川・蛭川・神田川・保科川など多くの河川が流れ込んでいる。そのため、台風や集中豪雨によって、たびたび農地や家屋に被害を受けてきた。表45は昭和二十四年以降の大きな水害をまとめたものである。


表45 長野市域の昭和24年(1949)以降の風水害