昭和四十八年(一九七三)十月、第四次中東戦争を契機(けいき)にアラブ産油国が原油生産の削減(さくげん)を決定した。このため、石油市場における供給量が減少し、原油価格は大幅な値上がりとなり(翌年一月までに約四倍)、世界的にインフレが激化(げきか)して諸産業の生産が縮小する経済危機(きき)がおこった。これを一般に石油危機(オイルショック)とよんでいる。日本は戦後の高度成長をとおして、石油のほとんどを輸入原油に依存していたので、先進工業国のなかでももっとも強い打撃をうけた。中東石油の供給削減と大幅値上げが伝えられると、ただちに生産活動大幅縮小の危機としてうけとめられ、パニックを引きおこした。
長野県では、同年十一月十九日県石油需給連絡会議が発足し、さらに十二月十九日県石油等必需物資緊急対策本部を発足させた。政府も十二月二十二日石油二法(石油需給適性化法と国民生活安定緊急措置法)を公布・施行して、生活必需品の業者による投機的買い占めと売り惜しみなどの対策につとめたが、物価の上昇はおさまらなかった。
この間、長野市でも石油、電力、紙などの、ないないづくしがひどくなり、同年十一月二十日、柳原市長(同月十一日初当選)は、部課長会議で冗費(じょうひ)節減などを指示し、①昼休みの一斉消灯、②資料作成部数は最小限に、③印刷は紙の両面使用、④マイカー通勤やドライブの自粛(じしゅく)、⑤緊急用務を除いて二キロメートル以内は自転車で、などを打ちだした。また、市教育委員会では例年より早い十一月十八日の初雪で寒さが増したこともあり、すでに大半の学校で石油ストーブの使用が始まっていて、石油不足が最大の課題になっていた。
県公衆浴場業環境衛生同業組合長野支部(市内浴場三三軒が加入)は、十一月二十六日臨時総会を開き、十二月一日から石油不足対策として、①毎週月曜日を休日にするとともに、営業時間を午後三時から午後一〇時までに統一する、②入浴料大人六〇円を六五円に引きあげる、ことを決定した。長野市内の公衆浴場の営業時間は、これまで午前五時から午後一一時までの一八時間と長いものから、午後二時から午後一〇時までの八時間程度のものまで浴場によってまちまちであった。このうちとくに、一般銭湯(せんとう)の朝湯四軒は長野市だけに残っており、老人を中心に「朝湯会」もできているなど人気を集めていたが、その姿も消えることになった。
長野市は十二月十日、市内のデパート・一般商店で、袋入り漬物類、砂糖、トイレットペーパーなどを消費生活モニターが買って、表示量と実際量が合っているかを調査した。その結果一番ひどかったのは、袋入り漬物類で一四点のうち八五パーセントが不正、砂糖は一一点のうち量目はみんな合格であったが、値段(二四五円相当)が最高と最低で六二円の開きがあり、店による大幅な開きがみられた。トイレットペーパーは一四点のうち、表示の長さより短いものが二点(最高二・三メートル不足)で、あとの一二点は表示より長い(最高三・三メートル)ものであった。
この時期の長野市における「一般勤労者世帯年間平均一ヵ月の実支出額」の推移は、表46のようである。これによれば、石油危機が発生した昭和四十八年は、年平均のため物価数値の上昇はあまりみられないが、実際上は危機発生の秋から始まっており、それは四十九年以降の数値によって生活費急増の状況がわかる。
この石油危機は、翌四十九年五月に中東戦争が解決に向かい、石油の供給削減も解除されて危機は去ったが、その底流にあった世界的インフレと石油資源の不足問題は解決されることなく、引きつづき石油価格の引き上げがつづけられたため、世界的に景気は深刻な不況とインフレの同時進行をまぬがれなかった。
なお、昭和五十三年十二月に始まったイラン・イスラム革命による原油生産の減少では、一年間で原油価格が二倍にはねあがり、世界経済にふたたび同時不況の大打撃を与えた。これは一般に、第二次石油危機とよばれている。