不登校・いじめと学力問題

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高度経済成長期に拡大した市域の住宅地は、昭和四十年代後半は若槻・安茂里(あもり)・浅川・篠ノ井方面へ、五十年代は大豆島(まめじま)・更北・川中島方面などへも広がった。そのため、マンモス校といわれる過大規模校が、小・中学校に出現した。核家族化と共働(ともばたら)き家庭が増えたことから、親が戻るまで留守番(るすばん)をして過ごす(かぎっ子)小学生や学習塾やけいこに通う児童・生徒も増え、車の通行量の増加もあって、友だちと外で遊ぶ子どもたちの姿は減少してきた。表48からも、低学年児童の留守家庭や高学年児童の通塾の多さがわかる。


表48 留守家庭児童・通塾児童の割合

 高校進学率では県平均が八〇パーセントをこえた昭和四十五年(一九七〇)春に、長野市は九一・六パーセント、さらに五十年には九五・一パーセントになった。このような進学志向の背景には、経済界の人材養成要望とともに、親の高学歴への期待があげられている。

 平成年代になると少子化(しょうしか)が顕著(けんちょ)になり、市域の子どもの出生数も四〇〇〇人を大きく割りこんでいる。このような社会のなかで、学校での集団生活に適応できにくい児童・生徒が増えはじめた。友だちや教師との接触(せっしょく)をこばんで登校しようとしない不登校生(学校嫌い・登校拒否)も増加するようになった。県内の不登校生数は、平成四年(一九九二)以降一〇〇〇人をこえており(図52)、小・中学生のいずれの数値も全国平均を上まわっている。市域の不登校中学生は平成十年以降は三百人台で推移し、発生率は平成になってからは毎年県平均を上まわり、小学生は平成九年からは百人余で推移し、県平均をわずかに下まわる発生率である。


図52 不登校事例件数の推移
(長野県情報政策課資料により作成)

 図53は、小学校児童の学年を追って不登校生の推移を示している。どの年度の入学児童も、学年があがるにつれて増加がめだつ。この児童が中学一年生になると六年生時の倍近い数となり、中学二年生でさらに増加し、三年生での増加はにぶっている。不登校生には、病気を思わせる痛み・発熱などの身体状態、生活リズムの乱れや精神状態のはげしい起伏(きふく)などがみられ、有効な対応策は見つからなかった。その後事例研究がすすみ、状態を段階的にとらえ、手だてが考えられるようになってきている。


図53 年度別入学児童の追跡調査による不登校数の推移(長野県教育委員会教学指導課資料により作成)

 また、いじめも増加するようになった。①他人の持ち物を隠したりこわしたりする、②邪魔をして困らせる、③嫌がるあだ名をいう、④仲間はずしや無視をする、などがみられる。これは特定の者にたいして、ほかの友だちや先生・親たちにわからないように継続的に集団でおこなわれた。被害者が悩んで相談すると、告げ口をしたといってさらにいじめられた。そのため一人で悩みこみ生命にかかわる事例が、昭和五十年代末ころから、大阪・福島・東京をはじめ全国各地に発生した。六十年代には、長野市域にもみられるようになった。

 早急な対応が必要とされた学校では、①生徒の生活記録による心の把握、②特設の相談日を設け個別面接による悩みや気持ちの把握、などをすすめた。しかし、過大規模校では昭和六十年代まで、一学級の児童・生徒数が四〇人をこえ、指導の模索がつづいた。その後、他の学年や地域の人びととのふれあいや体験活動をとおして、気持ちをほぐす集会・製作実習・飼育・栽培の活動や、人間関係の拡大をはかるための学級編成がえを、小学校三、四年時・中学一年時末に、意図的におこなう学校が増えている。また、不登校・生徒指導対策委員会が、担任や養護教諭、特別に配置されたスクールカウンセラー・心の教室相談員(中学校)・心の相談員(小学校)などと連携して、特設の相談室での個別指導や、家庭訪問による保護者との意思疎通(そつう)などをはかっている。


写真155 箱庭療法の研修をする市教育相談センターの職員(長野市教育相談センター提供)

 長野市でも、不登校生のための教室を、平成三年(一九九一)の犀陵(さいりょう)中学校をはじめ六地区に開設して、自立への支援をしている。また、教育相談センターを十一年に市城山分室に開設し、電話や面接による相談、各学校を回って児童・生徒の遊びや話し相手になっての自立支援、保護者・教師との面談などをおこなっている。年間延べ三五〇〇人以上が利用している。

 学力問題は、高校の通学区制とからめて論議された。高度経済成長下で進学率が高まるなか、受験戦争の緩和(かんわ)と高校間格差縮小のため、総合選抜制が考えられていた。その第一歩として、昭和四十九年度から一二通学区制が実施された。総合選抜制については、学校選択の自由、競争原理の導入をめざす意見もあって、県会などのたび重なる慎重論の前に断念され、高校間格差縮小や地域高校育成へと向かった。

 昭和五十二年(一九七七)、長野県の高校入試における平均学力が、中学校間で四、五十点の差があることが初めて明るみに出た。昭和三十年代の全国一斉学力テストでは、小・中・高校とも全国の上位といわれていただけに、衝撃が広がった。塾通(じゅくがよ)いなど受験を意識した生徒と、通常の学習活動をする生徒との差が出たといわれた。格差解消のため県教委は、①小規模中学校への教員増配、②教員の人事交流拡大、③へき地教育振興研究指定校の新設、などを始めた。

 高校卒業生の四年制大学進学率低迷のため、県教委は基礎的・基本的学力の定着をはかるとともに、伸びる力を伸ばす方針を立てた。昭和六十三年度には、弾力的な教育課程の編成や、理数科など特色ある学科の設置に取りかかった。平成元年、高校長会が「もはや、教育県として胸をはれない落ちこみ状況」と指摘したことから、学力問題が大問題に発展した。関係団体があいついで提言・見解を発表し、活発な論議となった。県教委は二年度から新たに、生活・学力の実態調査や学力向上推進校の指定などを始めた。実態調査から、家庭学習をしない児童・生徒は学年とともに増加し、高校生では四〇パーセント余に達していることも明らかになった。県教委は三年度、①中学校に英語・数学の習熟度別(しゅうじゅくどべつ)授業の導入、②高校の学力向上推進校の増設、五年度には、①高校の学級定員を四五人から四〇人への引き下げ、②小・中学校のチームティーチングの開始、などをすすめた。

 学力問題の焦点は通学区制問題に移り、学校選択の自由などを求める主張と、学習意欲の喚起・高校間格差解消の主張が、ふたたび展開された。反対論や慎重論もあったが、一定限度で隣接通学区からの入学を認める「パーセント条項」を、県教委は平成七年度入試から実施した。その後、平成十二年十一月田中康夫知事が通学区制廃止を提言したのをうけて委員会が審議し、十六年度入学生から四通学区制に変わることになった。またこの間七年には、県教委は高校の多様化を推進する方針を打ち出した。これにより不登校や高校中退者の受け皿となる単位制課程が、八年度に長野商業高校定時制課程に、国際教養学科が十一年度に長野西高校に導入された。