「まちづくり」という言葉がさかんに使われるようになるのは、昭和四十年代の後半からである。長野市では、昭和四十六年(一九七一)八月、市民参加による第一回びんずる祭りが始まり、また、四十八年八月には初めて中央通りで歩行者天国が実施され、まちに潤(うるお)いをあたえるための「長野市野外彫刻賞」も制定された。いずれも心の豊かさや地域の活性化をめざしたまちづくり運動の初期の動きであった。
昭和五十年代に入ると、長野大通り建設など大がかりな都市基盤整備事業や土地区画整理事業があいついで実施され、市街地や郊外でのまちなみ景観や交通・商業事情は大きく様(さま)がわりした。
昭和六十年には、長野市内第一号の第一種市街地再開発事業として、北長野駅周辺の整備が始まり、平成二年(一九九〇)には、ショッピングビル東急ライフ(五階)が、平成九年十一月にはノルテ長野(一三階)が完成し、それまで倉庫などがならんでいた周辺一帯は地域活性化の拠点(きょてん)として整備された。いっぽう、若槻地区と豊野町にまたがる丘陵(きゅうりょう)地帯に大学を誘致(ゆうち)し、住宅・学術施設・産業団地を総合した大規模なニュータウンをつくろうとする「長野北新都市」建設構想がうまれたが、低成長期を迎えて事業主体の地域振興整備公団が撤退したため、計画は中止された。
いっぽう、農村部では、昭和三十年代半ばから農業人口の減少や高齢化がすすみ、村おこしの必要がさけばれ始めた。昭和六十一年、七二会瀬脇(なにあいせわき)の国道一九号沿いに「おやきセンター」が開店した。県のモデル地区に指定されたのを機に有志が「むらおこし協業組合」を設立し、郷土に伝わる手づくりのおやきを「長寿おやき」と名づけて売りだしたものであった。農協の一角を借用し、会員が交代で製造・販売にあたった。これは自然食ブームとも重なって好評で、翌年には事業所を拡張した。この活動は村おこしの成功例として紹介され、近隣へ広がっていった。
平成四年には篠ノ井信里(のぶさと)の女性グループ「たんぽぽの会」が直売所を開店した。最初は遊休農地を利用した共同農場の有機低農薬農産物の直売からはじめ、豆腐(とうふ)や薬膳(やくぜん)おやきなどの農産加工も手がけ農産加工室・総菜(そうざい)室・食堂・おやき工房なども設置した。しかし、こうした取り組みにもかかわらず、平成六年の市内の中山間地一〇地区の調査では、遊休農地は約八〇〇ヘクタールで、農地全体の三二パーセントにおよび、地域活性化のための産直交流、特産品栽培、りんごなど農産物のオーナー制度などさまざまな試みがなされた。平成十一年には「中山間地域等直接支払制度」が制定され、各地で農地維持のための活動がはじまった。浅川坂中地区ではそば・馬鈴薯(ばれいしょ)・プラムなどの栽培、地区の小学校児童の体験学習を通じての交流、直売所での販売を実施し、芋井広瀬地区では「良好な田園風景づくり」に取りくんでいる。
長野市では、昭和六十三年に県下初の「都市景観賞」を制定し、平成元年五月には建設省の都市景観モデル都市の指定をうけ、大門町をふくむ城山公園一帯を重点地区に指定した。平成九年の市制百周年記念には、「ふれあい・交流活性化事業」として、「住民自らが創意工夫し、歴史や伝統をいかしたまちづくり」をくみこみ、地区活性化運動の促進をはかった。また、十二年には組織を改正して、都市再開発・都市景観・まちづくりの三部門を統合して、まちづくり推進課を発足させた。
中心市街地空洞化の傾向は、昭和四十年代からみられ、自家用車の普及にともなって急激にすすんだ。慢性化した渋滞、駐車場の不足などによって、大型店の多くは郊外に新設されるようになり、平成十年には、市内中心地区にある大型店数は、九三店のうちわずか一四店になった。十二年には中心地区のそごう・ダイエーもあいついで閉鎖し、市街地の将来に不安を与えたが、市の支援もあって、ダイエーの跡地は「もんぜんぷらざ」として活用され、そごうの跡へは信越放送の移転が決定した。同年、市は中心市街地活性化基本計画を策定し、長野・篠ノ井・松代の三地区を中心市街地として指定した。
篠ノ井地区では、昭和五十五年茶臼山(ちゃうすやま)恐竜公園が人気をよんだのをうけて、地域振興会が恐竜コンクールを開催したり、駅前に恐竜の模型を展示するなどの取りくみがあった。活性化基本計画では、鉄道の分岐点で、オリンピック開閉会式場となった土地の特性をいかしたまちづくりをめざしている。
長野地区では、善光寺門前の大門町や中央通りは昭和四十七年(一九七二)善光寺本堂裏に駐車場が開設されてからは、南からの参拝客は激減し、平成四年(一九九二)には、四十七年の三九・八パーセントに減少していた。平成五年、中央通り沿線の一一商店会は連合して活性化検討委員会を発足させ、中央通りを善光寺の表参道として復活させようと季節ごとにテーマを設けて「ながの歳時記(さいじき)」などのイベントをくりひろげた。
平成八年に完成した中央通りの整備にあわせ、翌年大門町で交差する国道四〇六号も拡幅して全通した。中央通りは、電線等が地下化され、アーケードが撤去(てっきょ)され、沿道には丁石(ちょうせき)を兼ねた自然石の道標が設置された。大門町の歩道は片側五メートルに拡幅、車道も石畳舗装(いしだたみほそう)となり、国道と交差する参道入口には常夜灯を移転設置し、松を植えた。大門町南地区では「景観協定」を結び、建物の色は白・黒・灰・茶系統を基本とする、自動販売機を置かないなど一〇ヵ条を決め、ショーウィンドーを利用したミニ博物館も設置した。平成十年、大門町は財団法人都市づくりパブリックデザインセンターの「都市景観大賞」を受賞した。景観形成部門では県下で最初であった。十三年四月国道沿いには市立博物館の附属施設として「ちょっくらおいらい館」も開館した。十四年には、有志の手によって大門町の参道を二三万本の花びらや樹皮などで埋めるインフィオラータが実施された。
松代地区では、松代の史跡や文化財を保存し、まちづくりに生かそうとする動きが早くからあり、昭和四十七年には有志による「史跡文化財保護協会」(五十年開発委員会)が結成され、保護条例の制定、管理事務所の設置、史跡巡り遊歩道の設置などの運動をつづけていた。平成になって国道四〇三号の拡幅工事を機会に、木町まちづくり協議会では景観協定を結んで、城下町らしい町並みづくりにとりくんだ。平成十三年には市の「信州松代まるごと博物館構想」の策定を受けて、「夢空間松代のまちと心を育てる会」などいくつかの市民の会がうまれ、十五年には、エコール・ド・まつしろ倶楽部(くらぶ)が発足した。松代雅楽・語り・大門(おおもん)踊り・囲碁・文化財ガイドなど数十の専科が生まれ、十六年の松代城復元工事の完成を機に活動をはじめた。