長野自動車道と長野新幹線の開通

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昭和三十一年(一九五六)三月に改正道路整備特別措置法・日本道路公団法が公布され、四月に日本道路公団が設立された。四十年六月に日本で最初の自動車道である名神高速道路が開通し、四十四年五月には、東名高速道路(東京・西宮間三四七キロメートル)が全通した。いざなぎ景気のなかで、四十一年に自動車生産高は世界三位となり、マイカー時代に入った。経済発展による人の動きやトラック輸送の増加にともない、時間・距離の短縮が求められ、各地から自動車道の早期着工の要請が強まってきて、四十年以降、各自動車道の建設が始まる。

 岡谷市・長野市間(約九三キロメートル)の自動車道の基本計画が昭和四十六年にたてられ、四十八年十月に整備計画が決定した。ルートはJR篠ノ井線にほぼ沿っており、関越自動車道上越線(上信越自動車道)と更埴ジャンクションで合流し、松代町・若穂をへて須坂市にいたるようになっていた。これは、南北信の交流を活発にするとともに、陸の孤島とまでいわれた長野県が関東・東海・関西と結ばれることになり、産業・経済・観光開発の大動脈として、県民生活への大きな効果が期待される道路建設の出発であった。

 当時、長野・松本間は鉄道のほか国道一九号で結ばれていたが、約七〇キロメートルは道幅六~八メートルで、犀川に沿って曲がりくねっていて橋幅も狭いので、自動車で順調でも二時間かかっていた。長野・松本間自動車道ができて中央自動車道と結べば、長野・松本間は一時間、長野・飯田間も二時間で結ばれることになる。

 松代町では、自動車道の計画を知った商工関係者が中心となって、昭和五十年(一九七五)六月に中央高速道長野線長野松代インターチェンジ誘致(ゆうち)期成同盟会を結成して、インター誘致の活動を開始した。高速自動車道が通っても、インターがなければ駅のない鉄道と同じで城下町松代はいっそうさびれてしまう、と危機感をつのらせたのである。同年十二月には長野市議会が、松代インターチェンジ誘致を採択した。篠ノ井・松代・若穂三地区の農協が中心となって組織した高速自動車道対策委員会は、農業振興の立場で協議し、優良農地をつぶさない、集落を分断しない、公害を出さないの三原則を確認して、関係方面に要望を伝えた。このころは、賛成・反対・条件闘争など、さまざまな意見がうずまいていた。

 中央自動車道の諏訪ルート完成で県内全通が昭和五十六年三月に実現し、県内は南から本格的な高速自動車交通時代を迎え、長野線の早期開通が待たれることになった。昭和五十七年一月には通過予定地区すべて、大筋で受け入れを合意し、須坂市・中野市間の整備計画も決定した。昭和六十一年には幅くい打ちが終了した。幅くいには名前がつけられ、塩崎地区は「北信黎明(れいめい)の杭」、松代地区は「善光寺平飛躍(ひやく)の杭」、若穂地区は「北信躍動(やくどう)の杭」、須坂長野東インターの幅くいは、「北信開道礎(いしずえ)の杭」である。

 昭和六十一年から、松代松原遺跡・若穂川田条里(じょうり)遺跡などの緊急発掘調査が始まった。平成四~五年に、長野インターにつながる松代大橋が完成し、丹波島橋の四車線化も完成した。また須坂長野東インターと長野市内を結ぶ県道は、四車線に拡幅工事がすすめられた。

 平成五年(一九九三)三月二十五日に長野自動車道・上信越自動車道の開通式が、松代パーキングエリア沿いの上り本線上で盛大におこなわれた。開通区間は、長野自動車道の豊科インターから更埴ジャンクションまでの四二・七キロメートルと、上信越自動車道の更埴ジャンクションから須坂長野東インターまでの一六・八キロメートルである。ここに長年待望の高速自動車道が長野・須坂まで完成した。このあと、須坂長野東インター・信州中野インター間が平成七年十一月に、信州中野インター・新潟県の中郷(なかごう)インター間が平成九年十月に開通して、県内関係全線の開通となった。十一年十月には上越ジャンクションまで開通し、北陸地方との交流を加速した。


写真158 松代パーキングエリア沿いで自動車道開通を祝う

 県内の新幹線への動きは、昭和四十七年(一九七二)に北陸新幹線の基本計画が決定し、高崎・武生(たけふ)(福井県)間のルートが公表されてから始まった。長野市は、四十八年に新幹線高速道対策室(五十六年課に、平成十年さらに室)を設置し、五十五年二月に北陸新幹線建設促進長野市期成同盟会を組織して、政府・国鉄・日本鉄道建設公団に建設促進の陳情をおこなった。五十七年に北陸新幹線は一時凍結となったので、五十八年に「信濃路に新幹線を」を合いことばに、長野県北陸新幹線沿線市町村連絡協議会を発足させた。関係県とともに署名運動・陳情・決起大会などの建設促進運動をすすめたところ、政府は五十九年十二月にゴーサインを出した。

 平成三年(一九九一)六月IOC総会で「一九九八年冬季オリンピックは長野で開催」と決定され、新幹線の早期実現が不可欠(ふかけつ)のものとなった。同年九月に北陸新幹線軽井沢・長野間の起工式がおこなわれ、十一月二十日、北陸新幹線ルートでの初めての杭打ち式が篠ノ井駅構内でおこなわれ、塚田佐(たすく)長野市長らが「長野市躍進の杭(やくしんのくい)」と書かれたくいを打ちこんだ。さまざまな問題を解決しつつ用地買収・建設工事がすすめられた。平成六年一月には長野新駅舎が着工され、八年七月には仏閣型(ぶっかくがた)長野駅舎の解体が始まり、六〇年間市民や観光客に親しまれた駅舎は惜しまれつつ姿を消した。


写真159 北陸新幹線「長野市躍進の杭」の杭打ち式

 平成九年十月一日、北陸新幹線が開業した。列車の愛称は「あさま」とした。東京駅の駅構内では東北新幹線・上越新幹線が乗り入れるので、北陸へ行かない北陸新幹線は混乱を避けるため「長野行新幹線」としたが、のちに「長野新幹線」を用いることになった。長野駅では当日の午前五時半に、新幹線出発式をおこない、六時二分、「あさま」東京行は定刻どおり発車した。長野・東京間は、時速二六〇キロメートルの新幹線によって最短一時間一九分で結ばれ、新幹線通勤者も生まれた。


写真160 長野駅改札口前で新幹線開業を祝う合唱

 平成八年五月一日に篠ノ井・軽井沢間の鉄道を経営する第三セクター会社「しなの鉄道」(県・沿線一〇市町村・金融機関・法人など二八団体が共同出資)が発足した。JRから経営分離したしなの鉄道は翌年十月一日に開業し、出発式を六時四〇分に篠ノ井駅でおこなった。鉄路が廃止となった横川・軽井沢間の代がえバスも運行が開始された。乗客の多い長野・篠ノ井間はJR東日本で、篠ノ井・軽井沢間を経営することになったしなの鉄道は、開業以来赤字がつづいた。平成十三年、経営改革案を最大株主の県知事に提案して、本社を長野市から上田市に移転し、HIS開発管理室長の杉野正を社長に招き、民間感覚をいかした経営立てなおしを託した。杉野社長は、さまざまな手だてを講じて経営立てなおしをはかり、平成十四年には黒字に転じさせている。