松代大本営地下壕跡の保存・公開問題

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松代大本営地下壕(だいほんえいちかごう)跡は、戦後まもなく舞鶴(まいづる)山の建物が昭和二十一年(一九四六)九月埴科仏教会による戦災孤児の養護施設(翌年三月認可)に使用され、また、昭和二十二年には大坑道には中央気象台(三十二年七月気象庁に昇格)地震観測所が開設されていた。しかし、このほかの地下壕は三〇年余ほとんど放置されたまま人びとの記憶からしだいに消えようとしていた。

 ところが、昭和五十八年から篠ノ井旭高校が平和教育の一環として沖縄修学旅行を実施するなかで、その発展として六十年十月同校の教師・生徒・父母らが初めて松代地下壕の実地調査を始め、結果を校内で発表し、地下壕を戦争歴史資料として保存したい願いを長野市長・県知事・総理大臣・国連事務局長などに送った。長野市長は「松代昭和史跡として後世に遺(のこ)したい」とし、県知事は「長野市と協力」の返書を送った。これが動機となって、大本営地下壕の保存・公開をすすめる民間団体がいくつかつくられ発足した。

 昭和六十二年一月に発足した松代大本営の保存をすすめる会は、主として保存・公開と平和祈念館建設などの運動を強力にすすめた。六十三年象山地下壕入り口の地元西条表組住民は、地下壕の公開へ向けて地元にとっても好ましい提言をしようと、恵明寺(えみょうじ)がわ入り口の環境整備により地域活性化につなげようとはかった。

 市は同年十二月「象山地下壕保存対策委員会」を組織し、現地調査と保存・利用の具体案作成に取りくみ、その答申にもとづいて、平成元年(一九八九)十一月三日(文化の日)から恵明寺がわ入り口約七〇メートル(翌年に壕内の安全対策工事を加え約五〇〇メートル)を全面公開とした。この公開により見学者は県内外で年ごとに増え、毎年数万人から一〇万人をこすようになり、平成十三年度には一二万人余となった。


写真161 ロ号地下壕の大坑道(コンクリート固めの部分)

 この間、民間諸団体によって、ときには共同で、ときには単独で、朝鮮人犠牲者追悼慰霊碑(ついとういれいひ)建立(恵明寺口に平成七年建立済み)、資料館・平和祈念館建設(清野がわ敷地確保済み)、朝鮮人慰安婦(いあんふ)の家(いえ)保存、犠牲者追悼(ついとう)集会などの運動が強力にすすめられた。そして長野市へは「市の文化財指定」の要請もしていたが、市は平成二年の文化財審議会で「史跡にあたらない」としていた。これらの運動は平成三年に長野が冬季五輪の開催都市に決定すると「五輪開催までに実現を」といっそう拍車がかけられた。平成五年五月、保存をすすめる会は「地下壕跡を県指定の文化財に」と要望を出したが、県は「長野市が指定していない」としてしりぞけた。

 いっぽう、文化庁は平成七年三月、史跡指定の時代基準を、これまでの「明治なかごろまで」から「第二次大戦終結ころまで」に改正した。これにより、民間団体は長野市に史跡指定を強く要請した。市は同年六月やはり前回と同じ結論で指定にいたらず、市民団体の要請は再三におよんだが協議は平行線をたどっていた。また、これら民間団体の運動について、地元住民のなかには、地下壕建設当時の私的財産の犠牲的提供や強制労働割りあてなどの実態の聞きとりもないままの推進に不満と疑念があり、各所で反対決議もなされた。

 市では、以後文化庁への調査報告の必要から地下壕保存等対策委員会を設置して、地元区長や地権者・地元議員などの意見を入れて、非公開区間の調査や検討会をかさねた。そして平成十年十月、市教育委員会は文化庁がすすめる遺跡の所在調査にたいし、これまでの方針を変え、最高の「Aランク」評価として文化庁に報告した。これにより、松代大本営地下壕跡の文化財史跡指定問題は、国の調査結果を待つ状況となっている。