昭和五十九年(一九八四)末から県内の冬季スポーツ競技団体が中心になって、平成十年(一九九八)の第一八回オリンピック冬季競技大会の長野県への招致に取りくみはじめた。昭和六十年二月にはそれが一気に具体化し、三月二十五日の県会本会議において満場一致で大会招致を決議した。長野市議会も同日、招致意見書を可決し知事に送付した。六十年十二月、長野オリンピック冬季競技大会招致準備委員会が設立され県内候補地の一本化がはかられた。その結果、長野市を開催都市とし、スキー、スケート、ボブスレー、リュージュ、アイスホッケー競技の候補地に決定した。昭和六十一年七月、長野冬季オリンピック招致委員会を設立し、本格的招致活動に入った。国内で立候補したのは長野のほかに旭川、山形、盛岡の各都市であり、この四都市によって国内候補都市が争われることになった。長野の招致委員会は関係団体と協力し、積極的なPR活動を展開して長野の優位性を訴えた。昭和六十三年三月から四月にかけて全日本スキー連盟、JOC(日本オリンピック委員会)の現地調査をへて、六月一日のJOC総会で、長野市は第一回の投票で、立候補都市に選出された。
IOC(国際オリンピック委員会)への立候補届けは平成二年(一九九〇)二月に提出され、長野市とともに立候補したのはアメリカのソルトレークシティーなど五都市であった。長野オリンピック招致委員会は「地球時代の美しいオリンピック」をスローガンに掲げて多様な招致活動を展開し、平成三年六月十五日、バーミンガムIOC総会において開催都市に決定された。
長野市ではこのあと、長野オリンピック冬季競技大会組織委員会(NAOC)が発足した。NAOCは「長野オリンピックは二一世紀への架(か)け橋となるスポーツの祭典である」などの大会基本理念と、大会テーマの「世界が、ひとつの花になるために」を決定した。そして、平成七年三月には大会運営基本計画を策定し、「愛と参加の長野オリンピック」を強調し、①子どもたちの参加促進、②美しく豊かな自然との共存、③平和と友好、の祭典の三本の柱をすえた。この基本計画にもとづいて、冬季オリンピックの実現に向け関係各種団体と市民一般を包含(ほうがん)した広範(こうはん)な活動が展開された。
長野市はオリンピック局などを設けて、関係機関との連絡調整、広報宣伝、用地取得、施設の建設、大会運営支援などの諸業務を推進した。大がかりなボランティア活動も展開された。長野市がNAOCに提供したおもな施設は表49のようであった。
平成十年二月七日、南長野運動公園に五万人の大観衆を集めてオリンピック冬季競技大会の開会式がおこなわれた。午前一一時、大型スクリーンに善光寺の鐘が映しだされ、平和の祭典の開会を告げる鐘が響きわたった。
長野オリンピックは二月七日から二十二日までの一六日間、長野市を中心とする五市町村を会場に開催された。長野大会の参加国・地域は七二、選手・役員は四六三八人、新種目をふくめて七競技・六八種目が実施され、その数は史上最多であり、二〇世紀最後の冬季オリンピックにふさわしい大会となった。長野市域に特設された各競技場は、トップレベルの選手がもてる力を十分に発揮できるように世界最高水準の施設として整備され活用された。
日本選手の活躍では、スピードスケート男子五〇〇メートルの清水宏保(ひろやす)選手の金メダルをはじめとして、日本中をわかせた。日本はフリースタイルスキー女子モーグルの里谷多英(たえ)選手、ジャンプラージヒルの船木和喜選手、ジャンプ団体の日本チーム四人、ショートトラックスピードスケート男子五〇〇メートルの西谷岳文(たけふみ)選手など合計五つの金メダルに輝き、そのほか、銀一、銅四のメダルを獲得、入賞選手・チームは三三にのぼり、日本のオリンピックの成果として史上最高の記録であった。
一六日間の日程を終えて、長野オリンピックは二月二十二日、閉会式を迎えた。冬季オリンピック旗は、IOC会長の手をへて塚田佐長野市長からソルトレークシティーのD・D・コラディーニ市長に手渡された。
長野パラリンピック冬季競技大会の開会式は、平成十年三月五日一九時から二一時までエムウェーブで開催され、「希望」をテーマに「火(聖火)」が重要なモチーフとして登場し、感動的な雰囲気のなかでおこなわれた。大会競技は五日のアクアウィングにおけるアイススレッジホッケーの予選、ノルウェー対日本に始まり、十四日の白馬村のスノーハープにおけるクロスカントリースキーの女子クラシカル一五キロメートルの競技で終了する、一〇日間の熱戦であった。日本勢は全大会を通じて金一二、銀一六、銅一三のメダルを獲得し、パラリンピック史上最多の成績をあげた。また、長野市関係選手も銀二、銅三を取り、大活躍であった。
このオリンピック・パラリンピック両大会の成功のかげで自発的献身的に活動した多くの市民ボランティア・児童・生徒・学生などによる盛り上がりを見のがすことはできない。とくに一校一国運動はその後の開催国にも引きつがれ大きな影響を残している。