長野市は、太平洋戦争敗戦後昭和二十九年(一九五四)と同四十一年の二回にわたる周辺市町村との合併により、農村地域面積や農家人口の率が高くなった。ところがそれ以後は、図54および図55でみるように、都市化現象が進行し、農家人口の減少と第二次・第三次産業人口の増加がすすんだ。この現象は昭和四十年前後から始まり、平成年代にかけての、冬季オリンピックの開催都市招致により、かつて経験したことのない急激な都市状況の変化と発展をみることになった。しかし、いっぽうでは、この時期すでに全国的ないわゆる低経済成長期に入っており、長野市は苦しい財政状況下での市政の推進を余儀(よぎ)なくされた。
さらに、社会状況もまた、少子高齢化がすすみ、社会福祉の整備に迫られることになった。長野市の六五歳以上の老年人口は、昭和四十五年当時全人口の七・五パーセント弱であったものが、年々増えつづけ、平成十二年(二〇〇〇)には一八・五パーセント弱となった。その逆に一四歳以下の年少人口は、昭和四十五年の二三・五パーセントが年々減少し、平成十二年にはわずか一五・五パーセント弱になっている。
このほかにも、社会問題として、ごみ・汚泥・汚物などの処理問題や保健・医療体制の整備などがあり、これらは、周辺市町村についても同様な問題で、それぞれが単独で解決できるものでなく、関係市町村が共同であたらなければ解決できない状況になってきた。
国(自治省)は、昭和四十年代の経済発展にともなう地域社会の変動に対処し、都市および周辺農山村地域を一体として広域行政の体制整備をすすめるため、四十五年四月「広域市町村圏振興整備措置要綱」を出した。これにより、長野県は四十六年七月十五日、一〇ヵ所の広域市町村圏に分けられ、このうち、長野市は図56のように、長野市を中心とした一八市町村が「長野地域広域市町村圏」に指定された。四十七年「広域市町村圏計画」を策定して、以後、ごみ処理や養護老人ホームなど関係市町村による「広域行政事務組合」を設立して、それぞれの目的に沿って運営にあたった。平成五年四月一日「長野広域行政組合」に名称を変更したが、同十二年三月三十一日にはこれを発展的に解散して翌四月一日新たに「長野広域連合」が発足した。事務局は長野市城山分室内に置かれた。
いっぽう、国は平成元年十二月、臨時行政改革推進審議会が「国と地方の関係等に関する答申」で示した「地域中核都市」構想をふまえて、地方制度調査会が平成三年度から二年間にわたり審議し、平成五年四月に「広域連合および中核市に関する答申」を出した。これにより平成八年四月一日、全国で一二市が中核市に移行し、長野市は平成十一年四月一日に中核市に移行した。中核市の条件は、①人口三〇万人以上(長野市三五万八千人余)、②面積一〇〇平方キロメートル(長野市四〇四平方キロメートル余)以上であった。移行により県から市に移譲(いじょう)された事務は、二七七八項目におよび、そのうち、保健所関係をふくむ保健衛生事務が約六〇パーセントで一七〇〇項目ともっとも多くを占めていた。市は保健所の設置位置を川合新田とした。この周辺には長野赤十字病院、長野市医師会、長野市薬剤師会、長野市中高年齢労働者福祉センター、長野市社会福祉総合センターなどの施設があり、関連機関との連携(れんけい)がとりやすい利点があった。
長野市が平成十年度から実施している市民アンケート(三二項目)のうち、上位一〇項目の結果は図57のようである。これによれば、五年間連続の上位は、高齢者の福祉、保健、医療、子育て支援、生活環境、自然環境の保全、ごみ問題などである。中心市街地の活性化問題は、平成十二年度までは二〇位前後であったが、十三年度からは、にわかに七位に上がってきている。
平成十三年十月二十八日に当選した鷲澤正一市長は、就任以来「市政に市民感覚を取りいれる」ことや「中心市街地の活性化」問題などを取りあげるとともに、国が打ちだした「平成の市町村合併」には、「将来の政令指定都市をめざして取りくむ」とした。平成十四年十月広域連合圏内の上水内郡豊野町から、十五年三月には同郡戸隠村・鬼無里村・更級郡大岡村の一町三村からの合併申入れを受けた。平成十五年六月には、法定合併協議会で一町三ヵ村の長野市への編入合併が決定されている。
そして十六年六月二十九日の市議会の定例会では、全員賛成のもとに、十七年一月一日を期しての合併が可決された。これを受けて七月十四日には、長野県知事あてに合併申請書が提出されている。