開村伝承

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長野市はオリンピック開催を期に、大きく変貌(へんぼう)したといわれる。新幹線が開通し、市内の交通の便も以前にくらべて飛躍した。それに加え、街の様相も大きく変化してきていることはだれしもが実感しているところである。こうした自分のふるさと長野市を、足元から見つめなおしたとき、人びとは日々よって立つ大地長野市のことを考えながら生活しているわけではないにしても、自分が住み慣れたムラ(以下、町場をふくめて村と記す)がいつごろ、どのようにしてでき、発展してきたのかを知りたい気持ちをもっている。それは、自分が現在この地に存在することの、よりどころを知りたいこととも関係する。

 そうしたとき、自分の住む村がいつごろできたのかを明確に語れる人は少ない。江戸時代や明治時代になってからの新田開発などでできた村であるとか、記憶に残る災害で村中が移住してきたといった大きなできごとがあった場合は別として、たいがいの村では村の成り立ちが不確かな場合が多い。

 そのようななかで、村のはじまりは湖の水が引いてできたといい伝えているところもわずかではあるがみられる。三輪や山田中(小田切)、松代(松代町)などに伝わる話では、太古のむかし、長野盆地は湖底であったという。旭山の長者屋敷から、仁礼(にれ)(須坂市)の長者の家に嫁(とつ)いだときに、舟に乗って行ったという西鶴賀に残る話や、その湖水が引いてできたのだと伝える村もある。松本平に広く伝わる泉小太郎の洪水伝説のように明確に残っているわけではないが、長野盆地もかつては湖であったものが洪水によって肥沃(ひよく)な平らになったという伝承である。それは旭山から見れば向かいがわの瀬関(せせき)(松代町東条)辺りまで湖が広がっていたため、現在いくらその近辺を掘っても石が出なく黒土でしかないのだという伝承とも通じる。こうして人びとは山の中腹に住んでいたものが、水の引いた湖底に下りてきて住むようになったと伝えている。そのため最近まで、農民が水のつく田んぼへ行くことを「沖へ出る」といって出かけたというのである。こうした太古の大自然のドラマを知るすべはないが、かつての時代には善光寺平一帯が海であったといい伝える。


写真165 善光寺平(平成16年) (大室関崎方面から)

 また、水に関連しては、千曲川や犀(さい)川の氾濫(はんらん)が収まるにつれ、平地に移住し開拓してできた村であるという塩崎(篠ノ井)や綱島(青木島町)、大豆島(まめじま)、四ツ屋(川中島町)などのような開拓の歴史を物語る伝承もある。肥沃な氾濫原(げん)に大豆をまいたところよく実ったために大豆島とよぶようになったといい、最初に四軒のシバキリが住み着いたので、四ツ屋とよぶようになったと伝える。

 これら自然条件との関連にたいして、歴史的色合いの強い村の起こりを伝承しているところも多くみられる。豪族が開いたとされる市村(いちむら)(芹田(せりた))、千田(せんだ)(同)、栗田(くりた)(同)などの村のほかに、門前や街道筋にできたという村も多い。

 善光寺の門前町として栄えた横沢町のように、大工、左官、屋根屋などの職人町であるとともに、善光寺参詣客でにぎわう店屋や木賃宿(きちんやど)が多かったところもある。また東福寺(篠ノ井)や大安寺(七二会(なにあい))などの村も、寺と関係して起こったと伝えている。

 街道筋の村々としては、北国街道筋の丹波島(たんばじま)、善光寺町のほかに、北国西往還(善光寺街道)、戸隠道、大町道沿いに開けたとされる。上氷鉋(かみひがの)新田(川中島町)は、当初は瀬の窪(せのくぼ)(通称古屋敷)に住んでいた住人が、北国街道ができたことによって街道筋に移住してきたため、最初は「新出(しんで)」とよんでいたが、のちに「新田(しんでん)」とよぶようになったのだという。また、南市(みなみいち)(芹田)は丹波島に橋が架かるまでは、「市村の渡し」としてにぎわった村であった。

 このように村の成り立ちのなかには、川や崖崩れ、新田開発など、自然を淘汰して人が住める土地に開拓した例や移住した例、宿場町・門前町として人為的につくられた例などがみられる。こうして長い年月をへて、人びとが生活のよりどころとする村落共同体として村の特色をあらわしてきたのである。