災害の記憶

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開拓を通して開けた村は、その後も自然の猛威にたびたび被害をうけることがあった。自然界へ人の手によって修正を加えたものであったのだから、無理からぬことでもある。いくら先進の土木技術や重機を使おうが、ひとたび自然の大地を動かした場所は動きやすいものであるともいわれる。犀川や千曲川のたび重なる水害や善光寺地震による山崩れは、安住の地として開けた村にも大きな被害をあたえた。それらのできごとは古老にも語りつがれ、当時のようすを今に伝えてきた。しかし、最近では、それまでの忌(い)まわしい自然災害の記憶も薄れ、かつては避けた地にも新しい家がつぎつぎと生まれてきている。

 千曲川と犀川の合流する落合橋南がわの牛島(若穂)は、大雨ごとに県内の北半分を占める東北信・中信地域一帯の水がすべて合流する場所であるため、想像も絶する大量の雨水による水害に悩まされつづけてきた村であった。そのため県内には珍しい輪中(わじゅう)を築いて村内を守ってきたのである。しかし、台風による多量の降雨にはひとたまりもなく、輪中内の浸水被害は幾度となく起きたが、今のところ昭和二十年(一九四五)の枕崎(まくらざき)台風以降はないという。


写真166 輪中の村・牛島(平成12年)

 土木技術の進歩により、千曲川と犀川の境に背割(せわり)堤防を築いたり、赤野田(あかんた)川が改修されたことから、洪水による危険を意識することは少なくなってきたとはいえ、過去の忌まわしい水害を体験した年代の人ほど、自然への畏敬の念が強いのも確かである。

 各年代における牛島の災害にたいする意識をみると、年代が下るにつれて災害の記憶も乏しく、輪中の意味も薄れがちである。それは、歴史的・体験的認識の違いによるものである。一〇代から二〇代の人は今後土木技術の発達により、水害のおそれはあまりないとしているが、三〇代から五〇代の人びとはときと場合によっては水害の心配がまったくなくなったわけではない、としている。それに加えて過去幾度かの水害を体験している七〇代から八〇代の人びとは、同様の認識に立ちながらも、そののちの河川改修や排水機場の設置などをも体験してきた立場から、水害の危険が薄らいできたことを実感している人も多い。

 また犀川沿いには「沖」のつく地名が多く残る。小市(こいち)(安茂里)でみると、牧沖・住吉沖・園沖(そのおき)・町南沖・御堂沖(みどうおき)・開沖(ひらきおき)などの地名がある。その多くはむかしから住みついてきた集落内に残る地名でなく、犀川沿いの田畑などの耕作地帯である。これらの場所は善光寺地震による大洪水を筆頭に過去何度かの洪水に見舞われ、田畑を流されてきた土地でもあった。しかし、現在、ここには住吉・園沖・御堂沖・開沖各団地など数百戸単位の大きな住宅団地が開発されている。過去の忌まわしい災害の記憶をもたない新しい住民たちにとっては、住宅環境も整った最良の土地として、ここを終の住処(ついのすみか)と定めているのである。人びとがもっとも安心しよりどころとしている大地が動いた過去の山崩れや洪水災害も、近年土木技術の進歩やたゆまぬ河川改修などの努力によって、人びとの記憶から遠のいてきている現実はある。しかし、そこに古くから住む人びとにとっては、人知のおよばない自然の猛威がまたいつ襲ってくるのかという不安が意識の奥底に存在していることも事実である。

 災害の記憶が遠のくにつれ、災害にたいする人びとの意識が薄らいできていることを危惧(きぐ)する声も聞かれる。当時村を守るために総出で災害対策にあたった体験をもつものにしてみれば、近年の自衛としての消防団組織率の低下ひとつとってみても、行政や他人まかせの風潮に危機感を募らせる人びともいるのである。これからの社会において、人間の力もおよばない自然といかに共存しながら、新しい住環境を創造していったらよいか知恵を出しあうときがきたようだ。そのヒントは、そこに住まう人びとが長らく伝えてきた伝承に耳を傾けることが大切であろう。


写真167 地滑り直後の地附山(昭和60年8月)
手前は避難場所になった湯谷小学校体育館
(『地附山地すべり災害の真実』の口絵より)