屋敷構え

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住まいは、現代のように仕事場は別の場所にあり、食事をとり寝起きする場だけのものであったなら、わざわざ屋敷を構える必要もなく集合住宅ですむ。しかし、かつては、農業や商業など一家の生計を保障する生業(なりわい)と直結していたから、平面的な広がりをもつ屋敷空間が必要であった。農家であれば庭を利用して、収穫した穀類を乾燥・脱穀・調整する大事な作業場が必要であったし、商家であれば狭い町割の屋敷を有効利用した貯蔵場所や製造したり作業をする空間が必要であった。いきおい屋敷内には母屋や店以外の必要な機能をもつ付属建物や作業空間が配置される。およそ二〇〇坪(約六六〇平方メートル)前後の正方形や長方形の屋敷は、農家であれば屋敷中央に母屋を配置するのが都合よい。その周りに土蔵や物置、蚕室、外便所などを建て、庭や野菜畑、露地などを配した四方への広がりをもつ構えをとる。このように母屋を中心とした屋敷内のひとまとまりを南長池などではカマエとよび、人びとは子から孫へと代々伝えてきたのである。


写真168 カマエ 母屋と別宅(南長池 平成16年)

 子々孫々(ししそんそん)まで伝える大事な屋敷地であれば、災害による危険な場所は避けようとする気持ちは当然であった。その最たるものが前述の山崩れや洪水などの自然災害を避ける例であるが、死や病などの不吉なイメージが連想されることから忌み嫌われてきた言い伝えもある。それらは生へのマイナスイメージである墓地や寺・神社跡、火葬場跡、鬼門(きもん)の方角などを避ける場合で、ホトケヤシキとかキモンヤシキとよび、だれしもが抱く死への恐怖感が伝えられてきたのである。

 それはまた、家の永続に寄せる人びとの強い願いが根底に存在するためでもある。後継ぎがいないために、家が絶えてしまうことを、人びとは極端に嫌った。そうした屋敷は、山間部にあっては親戚筋が、自然に家が崩れるまで待ったりして、のちに取りこわし畑地にして管理する例が多く、平坦(へいたん)部の村でも親戚が管理しながら、一時的な賃貸借による駐車場にしたり不動産会社に委(ゆだ)ねたりする例もある。

 こうした自然災害以外の人的要因が住まいにおよぼす例からもわかるとおり、住まいに寄せ来る波は多様である。とりわけ近年の職住分離の時代にあっては、屋敷の有る無しにかかわらず、そこに住まう人や家族がいてこそ住まいが成り立つものであることを、あらためて認識するのである。

 ところがそれに反して、一昔前であれば家族団欒(だんらん)の機会や近隣との交流が深かったが、現代社会においては希薄となってきている。むかしは、隣近所とのもらい風呂やお茶飲み、初物(はつもの)や土産(みやげ)物のおすそ分けなど、立木程度でわずかに屋敷境を区切るなか、裏口を行き来しては、日常的な交流がおこなわれていたのである。しかし、現在では、農村部においてさえブロック塀や植え込みの垣根で屋敷を囲む傾向がみられ、近郊の住宅団地では隣の家がどこに勤め、何をしているか関心も薄くなり、地域の連帯が弱くなってきている。また家のなかにあっては、機密性の高い現代住宅の内がわから鍵(かぎ)をかけ、内に閉じこもった生活が一般的となりつつある。そのうえ一つ屋根の下にあっても、家族は各自の個室を中心とした生活が中心となり、一家そろって顔を合わせる機会も少なくなりがちな昨今である。