住まいと暮らし

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住まいの中心となる母屋は、ホンヤとかオモヤとよぶ。以前であれば、農家は寄棟(よせむね)造り草葺(くさぶ)き屋根のホンヤが一般的であった。これを屋根型からヨツヤネとかクズヤネともよんできた。市街地周辺の村や山間部の西山地域一帯では、かつては四、五十年はもつといわれるカヤを屋根材料としていた。また長野盆地一帯の小麦を裏作とする二毛作地帯の平坦地の村では、ムギカラを材料として利用してきた。そのようななかで稲作中心の赤沼(長沼)や綱島(青木島町)などでは屋根材料に稲藁(わら)を使ったという村もあるが、稲藁は持ちが悪く腐りやすかった。

 このように屋根葺き材料一つとってみても、その土地土地の生活と密着したものを活用してきたことがわかる。以前は村の入会地からカヤを入手することも容易であったが、カヤ場の消失にともないその土地の産業と深くかかわった麦からや稲藁を屋根材料として利用する傾向が強くなった。西山の村々では屋根材料の一部として屋根の下地に、当時広く栽培されていた麻がらを利用する例も多かった。このような屋根材の変化は、そのまま住まいと環境との変遷を物語るものでもある。いっぽう町家では、切妻(きりづま)造りや土蔵造り(大壁(おおかべ)造り)、ホンヤが多く、板や瓦(かわら)葺きの屋根が早くから導入されてきた。

 こうした伝統的なホンヤも、最近では新しく建て直してしまった場合が多い。わずかに残るヨツヤネの家でも草屋根の上からトタンを被(かぶ)せてしまうなどして、草葺き屋根のホンヤをみる機会は少なくなった。

 外観からはむかしながらのホンヤの姿をとどめる家も、内部はそのままで手を入れていないという場合は少ない(図58)。人が居て代がかわるごとに、その家や時代の社会情勢に左右され、住まいも変化を遂げてきたのである。それに一番影響したのは、職住分離であった。構造的には変化のない家の内部も、必要に迫られながら改造を繰りかえし、そのときどきに合った住まい方をしてきたのである。かつての広い土間や廐(うまや)は必要なくなり、そこには風呂場や内便所、隠居屋がつくられた。また燃料が変化し、それまでの焚(た)き物を利用したいろりやかまどを不要とした。それに代わる電気、ガス、灯油などを利用した生活は、勝手場のようすを一変させることになった。いろりやかまどでの煮炊きはガスコンロに、暖房器具も電気こたつや石油ストーブに代わった。それにともない気密性のある建具が出まわり、戸障子からアルミサッシ戸へと変化した。これらはつい四〇年ほど前からの動きである。


図58 改造前後の間取り(川中島町)

 いきおい勝手場などは改造され、主婦や家族にとって使いやすい空間に変わってきたが、いろりの消滅によりその周りに集う機会はなくなった。かわって家族が集う場は、テレビを中心とした茶の間などの居間となった(図59)。いろり周りに座って食事をとる家族の座と、テレビを見ながら食事をとる場合の座は、おのずと違う。そこには家族関係にも変化が生じてきていることがわかる。かつては上座(かみざ)であるヨコザを主人の座としていろり周りで皆が顔を合わせられたものが、テレビの間ではテレビ画面の一方向に家族全員が向き、お互いの顔を見合うことさえしない場合も出てきた。ましてや主人はテレビの真正面に座り、子どもはテレビ前の上座に座ることになり、家族間の上・下の位置関係も希薄になりがちである。


図59 家族の座る場所の変化(安茂里)

 こうした日常の場である勝手や居間の大きな変化にくらべ、ふだんあまり活用されない座敷周りの改造は少ない。冠婚葬祭時の大事な場所であって、日常生活に支障が少ないため、座敷にまで手をつけることはあまりしなかった。布団や家財道具の物置場となっていたり、年寄りの居間として利用している場合もある。近年では結婚式や葬式も専門の式場でする傾向が強く、二間(ふたま)つづきの広い座敷はますます利用することが少なくなってきている。

 このように暮らしぶりの変化は住まいの造りにも影響し、それまで長年暮らしてきた住まいも、そのときどきの家族構成などによって必要箇所に手を加えては、改造を繰りかえしてきたのである。

 以上、その土地の生業やエネルギーの変化、家族構成の移り変わりなどをとおし、社会環境の変化にあわせた新たな生活空間の創造を追ってきたが、いくら器(うつわ)を改善してもそこに住まう家族一人ひとりの存在が希薄な状況は進行するばかりである。