新幹線や高速自動車道が開通し、冬季オリンピックが開催され、それにともなう諸施設が建設されるなど、近年における長野市域の景観の変化は大きい。もともと生活の変化はいつの時代にも認められ、農村といえどもいつまでも同じ生活を営んでいたわけではない。よりよい生活をめざして、日々改良を加えてきたのである。それにともなって生活環境は変化し、景観も変わるのは当然のことではあった。しかしとりわけ、昭和三十年代なかば以降の変化はいちじるしい。市街地化や住宅地化が大きく進展し、かつて田畑であったところも家々で埋めつくされるようになった。わずかに残された農地は圃場(ほじょう)整備や用水路の改修によってその姿を変えた。細い農道まで舗装され、用水路も三面コンクリートで固められたり、暗渠(あんきょ)化されたりしたところが多い。かつて、いわゆる善光寺平(だいら)とよばれた平坦(へいたん)地には、犀川と千曲川とによってはぐくまれたゆたかな耕地のところどころに、集落が点在しているだけであった。善光寺と松代という二つの町と街道端に家並みが形成されてはいたが、そのすぐ背後には耕地が広がっていた。そこには稲作と麦作との二毛作を営み、また養蚕に精を出す人びとの生活があった。
黒く凍(し)みついた田んぼの色が濃くなるころ、戸隠連峰の山々がまだ真っ白に雪をかぶっていても、飯縄山(いいずなやま)や根子岳(ねこだけ)の雪解けはすすむ。飯縄山の残雪は十文字や人の形に見えるところが多いが、篠ノ井ではこれを猿の姿に見立ててサルユキ(猿雪)といい、これが苗代をつくってスジマキする(種もみをまく)時期の目安であった。根子岳の残雪が一一や八の形に見えると苗代の用意を始めるところも多かったが、赤沼(長沼)では綿や大豆の種まきの目安にもした。川中島平では残雪が三に見えると、雪もなくなるので作物の種まきをしてもよいといったという。また、かえでの葉が赤く出たら苗代準備をするとか、ざくろの芽が吹けば霜がこないとか、あるいは蓬(よもぎ)の芽が一寸(いっすん)(約三センチメートル)以上になると山に入ってもよいなど、自然の変化が農作業の目安になっていたのである。
まだ木々の枝についた芽が堅(かた)いころ、田の畦(あぜ)にはしだいに萌(も)えだした草の緑が広がってゆく。白い小さな花をつけたハコベやナズナ、青い花のオオイヌノフグリなどが咲く陽(ひ)だまりには、子どもたちの群れができた。こたつを囲む生活から解放された子どもたちは、まだハンテンこそ身にまとっているが、厚い綿入れから袷(あわせ)に着替えはじめる。青い柔らかい蓬(よもぎ)を摘むのは、お節供(せっく)の草もちをつくる準備であるが、子どもたちもくぼんだ石の穴に入れた草の葉を石でつぶしてモチツキの真似をしたりした。
麦ふみをする程度だった野良仕事も、春の彼岸がすぎるころになるといよいよ忙しくなる。伸びてきた麦が倒れないように土寄せ・土入れをする。そして苗代の準備も始まるのである。田植え機が導入されてから水田の作業も大きく変わったが、それでも水の管理が重要であることに変わりはない。そのためにまず、セギ(堰)とよばれる用水路を整備するためのセギホリがおこなわれた。これは用水組合などでおこなわれることもあるが、ムラのほとんどが農家であったころには、ムラじゅうの家からいっせいに出るカンヤク(鍵役)としておこなうことが多かった。まだ冷たい水のなかに入っておこなう作業は楽なものではなかったが、農業用水の確保のためにはどうしてもしなければならない作業であった。
苗代の準備のすすむころ、村々には春祭りの幟(のぼり)がはためく。桑畑の桑の葉も茂り、春蚕(はるご)の掃(は)きたてが始まる。麦の穂は実り、田はしだいに黄色に彩(いろど)られてゆく。二毛作(にもうさく)の田んぼは、麦の取り入れがすまないと田植えの凖備に入ることができない。時季をはずすとつぎの仕事に差し支えるので、苗代の苗の伸びと競うようにして麦刈りがおこなわれる。そのあとの田んぼはすぐにビッチュウ(備中鍬)などで耕して、田植えの準備をしなくてはならないから、刈りとった麦はただちに運びだされる。仕事のあいまを見てムギハタキ(麦の脱穀)をするのであるが、仕事の段取りが悪いとそれが間にあわず、梅雨(つゆ)になってしまい、穂から芽が出てしまったりすることもあった。いっそうズクを出さなければならない農繁期の到来であった。