草ほける

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クサボケというのは勢いよく草が生い茂る状態である。それは四囲の山々の緑が滴(したた)り、道端の草は茂り、畑にも雑草が根を張るときである。自然の生命力が満ちあふれるなかで農作業はいよいよ多忙をきわめた。

 立春から八十八日目にあたる八十八夜(はちじゅうはちや)は、苗代作りの時期の目安であった。苗代は日当たりがよく水の便のよいところなどを選び、短冊型に畝(うね)を立てて、スジ(種もみ)をまいた上を油紙などで覆(おお)う、保温折衷苗代(ほおんせっちゅうなわしろ)が多かった。また冷たい水が直接かからないようにノルメ・ヌルミなどとよぶ温水田をつくるところもあった。苗の根がよく張ることを祈って柳の枝を立てたり、それに焼き米を紙に包んで縛りつけたり、水口(みなくち)に戸隠の笹を挿(さ)したりするところもあった。いずれも苗がよくできることを祈っての工夫であった。「八十八夜の別れ霜」といわれていても、遅霜(おそじも)がやってきて、ようやく伸びはじめた作物の芽を傷めてしまうことも少なくなかった。ところによっては春蚕(はるご)のための桑が全滅してしまうこともあった。せっかく植えた野菜の苗も黒く凍みてしまうこともあり、よく晴れた夜など、苗に藁(わら)をかけたり、畝(うね)のあいだに水を入れたり、古タイヤを燃やしたりして農家の人びとは細心の注意を払った。

 タオコシのすんだ田に水を入れると、田の水が漏らないようにアゼヌリ(アゼタタキ)をし、アラクレ・シロカキによって水田をならして苗を植えやすくするなど、苗の成長にあわせて田植えの準備がおこなわれる。ハンゲハンサク(半夏半作)などといって半夏生(はんげしょう)(夏至(げし)から数えて一一日目、七月二日ごろ)までには田植えをすませるものとされていたところが多かった。田植えの時期は限られているので短期間で終わらせるために、ユイなどとよぶ共同作業でおこなわれることが多かった。「茜襷(あかねだすき)に菅の笠(すげのかさ)」という服装こそほとんど見られなかったが、綱島(青木島町)では新しい着物を着はじめたというし、ふだんとは違うこざっぱりした服装でおこなわれることも多かった。

 田植えは苗の成長を見ておこなうが、一軒の家だけでは人手が足りないときにはユイを組んで相互に助け合ったり、すでに田植えのすんだ地域からソートメ(早乙女)を頼んで植えたりした。また水を十分に確保するため、用水の上流から植えてくることにしているところなどもあった。


写真173 田植え(芋井広瀬 平成5年)

 田植えに先立って苗を神棚にお供えするところもあり、小市(こいち)(安茂里)では苗の上におにぎりを三つ載せて供えたという。かつて南長池(古牧)では田んぼの中心に苗を一束植えてこれを中心として渦巻(うずまき)状に植え、これをマルウエといったというが、オイウエなどといって、田のいっぽうの畦に沿って植えた人のあとを追うようにして目見当(めけんとう)で植えたところが多かった。また、ヒラウエとかメッタウエなどといって横に並んで目見当で前進したり後退したりして植えることもあったが、やがて等間隔に印をつけた麻縄(のちに針金・ビニール紐(ひも))を張って、それを目印にして横に並んで植えることが多くなった。縄の両端にいる人がつぎつぎに縄を移動して張り替えていくのであるが、その速さで田植えの進度が決まったという。ジョウギウエといって木の定規を用いたり、ワクウエといって梯子(はしご)状の枠をおいて植えたりすることもあった。

 無事に田植えが終わると田の神様にご飯や、苗束を供えたりした。苗のなかにナエボコといっておにぎりを入れて供えるところもあった。苗が丈夫で大きく育つことを祈るのである。そして夕飯には御馳走(ごちそう)をしてお祝いする家も多かった。つぎの日は農休(のうやす)みとして一日くらいゆっくり休んだが、北屋島(朝陽)では「遊ばっしゃれー」と触(ふ)れが出てはじめて農休みになったという。

 田植えがすんでもまだ苗の緑が田んぼを一面に覆うことができず、田の面に残雪の山が映っているうちだから、農家の人びとは水掛けに心を砕いた。稲穂(いなほ)が花をつけるころには田の草取りもすみ、収穫期に先立って水田の水を払うが、それまでは田に水を満たしておかなくてはならない。水を確保するためにセギホリをして用水路を整備したり、溜池(ためいけ)をつくって水をためたり、あるいは水番を置いて水を取られないようにしたりと、さまざまな工夫をしたが、日照りが何日もつづき、それでも水不足になると雨乞(あまご)いがおこなわれた。社寺にお参りすることは多かったが、古森沢(こもりざわ)(川中島)では、武水別(たけみずわけ)神社(千曲市八幡)で祈祷(きとう)してもらってきてから雨乞い地蔵を水に浸し、さらに戸隠(とがくし)神社からお水をいただいてきた。長谷(はせ)(篠ノ井塩崎)では長谷観音で護摩(ごま)を焚(た)き雨乞いの祈祷をしたり、聖権現(ひじりごんげん)にお参りしたりしたという。この長谷の観音様の三十三灯祭りは雨乞いの祭りとされている。地蔵を水のなかに入れて雨を乞うところは多かったが、薬師像や閻魔堂(えんまどう)の脱衣婆(だつえば)や神社の権現さんの木像であったりもした。東横田(篠ノ井)では千駄焚(せんだた)きといって神社で大麦のムギカラをたくさん燃やしたという。雨乞いの方法は一つだけではなく、何とかして雨を降らせるために、その状況によってつぎつぎといくつかの方法をおこなったり、組み合わせておこなったりしたのである。


写真174 長谷(塩崎)の三十三灯籠
(平成2年) (市教委文化財課提供)