秋風にススキの白い穂が揺れてはいるが、盆の余韻がまださめやらない八月二十七日前後がミサヤマ(御射山)である。腹の病にかからないようになどといって、赤飯を炊き、ススキの箸(はし)(カヤバシ)で食べる。川岸などに生えているススキをとってかついでくる姿を見ると、秋の訪れがひとしお身にしみる。カヤバシは翌日川に流してしまうが、日方(ひなた)(小田切)ではカヤで箸以外に鍬(くわ)や鎌(かま)の形をつくって山の神に供えたという。また、今井(川中島)では、これは蚊やアブが嫁に行くのを祝う行事であるという。季節の移り変わりを夏の虫に託しているのである。田が黄金(こがね)色に色づくのは間もなくである。
春以来の丹精(たんせい)がようやく形となって、目の前に稲穂が重く首をたれた田んぼが広がっている。夏の日照りには雨を乞い、害虫の被害から守るために虫送りをし、台風の折には風除(よ)けをして被害を避けようとした。そうした苦労も豊作を祈ってのことであった。今でこそコンバインなどであっという間に稲刈りがすんでしまうが、かつては一株ごとに稲刈り鎌で稲を刈ったものである。最初の一鎌をカマイレとかカマオロシとかといい、日方では戸主または年長者が鎌を入れ、それを太陽に供えたという。東横田(篠ノ井)ではなるべく太い株を選んで根元からこいだ初穂(はつほ)を、座敷の柱に下げた。これもカマイレといったという。収穫を待ち望んだ人びとの、感謝と喜びの気持ちのあらわれであった。
稲刈りが終わってカマアゲのぼた餅をつくったり、脱穀がすんだコキバシアゲの祝いをすますと、いよいよ忙しかった秋も終わりである。農業の機械化がすすんでも、基本的な作業に違いはない。作業の折々の進行状態をあらわすことばには、古い道具を用いたころの作業にもとづく呼び名が生きている。収穫作業の終わりを意味するアキアガリは、十一月のえびす講を目安にしていた。長野のえびす講の打ち上げ花火は、西宮(にしのみや)神社の縁起(えんぎ)市のにぎわいとともに、秋の終わりを知らせるものであった。それは新年を迎えるための買い物をする機会でもあった。そして「よく働けよ。ゼンコ(善光寺)へ連れて行ってやるからな。」などという、親との約束を楽しみに手伝いをしてきた村の子どもたちにとっても心待ちにしていたときであった。商店では大売出しをし、新しい年のカレンダーなども配った。新しい年は町から家々に訪れてきた。
こころ踊るにぎわいは町だけではなかった。村々でも秋祭りがおこなわれ、獅子舞(ししまい)の笛太鼓の音が夜遅くまで響いていた。茂菅(もすげ)や小市などでは青年団が神社の境内(けいだい)で仕掛け花火などもした。草木の芽吹きとともに始まった、きびしい農作業の疲れは、草枯れる実りの秋を迎えることによって生まれた充実感とともに幕を閉じるのである。