一年の最後の日を迎える前にはすでに、新年を迎える準備が滞(とどこお)りなくすんでいるはずである。一年の汚れを払い落とし、二十九日を避けて搗(つ)いた餅は家の内外の神に供えられ、一夜飾りを避けて松飾りもすでに飾られている。神棚や新しくつった年神棚(としがみだな)には氏神様や年徳神(としとくがみ)のお札が祀(まつ)られる。オミタマなどとよぶ、山盛りにした御飯に箸(はし)を立てて供える家もあった。神や祖先とともに、新しい時間の到来を祝うのである。最後の一枚になった日めくりも新しい暦に換えられる。
主婦をはじめとして女性たちは年取りの御馳走(ごちそう)をつくるのに忙しい。年の暮れの売り出しで買ったり、お歳暮でもらったりした塩引(しおび)きの新巻鮭(あらまきざけ)の、一の切り身を神棚に供えたあと、家族の数の切り身を焼いて、それぞれのお膳につける。ごまめ・数の子・昆布・酢の物・煮物など精一杯の御馳走をつくる。夕刻になると神棚・年神棚・仏壇などにお供えをし、お神酒(みき)をあげ、家族がお参りしてから、年に一度の御馳走の並んだ年取りの膳に着く。一家の長が「今年一年、みんな無事に過ごすことができておめでとう」などと挨拶してから、御馳走をいただく。ふだんはめったに食べられない白い御飯や魚に、子どもたちは目を輝かせた。大人たちのお神酒のお相伴(しょうばん)に預かることもあった。こうしてこの夜、疲れ果てた古い時間から、真新しい時間へと生活は移り変わる。
元旦(がんたん)は、これから展開する新しい時間の出発であるから、それがよりよい時間であるように、ふだんとはことさら異なる作法によって祈った。若水(わかみず)といって初めて汲む水や、初めて竈(かまど)に焚(た)きつける火も、主人や家の跡取りがすることもあった。若水は明きの方を向いて、唱え言(となえごと)をいいながら汲むことが多く、赤柴(あかしば)(松代町豊栄(とよさか))では「よねくも(米汲もう)、かねくも(金汲もう)」と唱えたという。岩野(松代町)などでは明治時代まで草鞋履(わらじば)きで千曲川まで行き手桶(ておけ)に若水を汲んできたという。南俣(みなみまた)(芹田)ではパチパチにぎやかな音がするからといって、竈の火をマメガラ(大豆稈)やムギカラで焚きつけたという。より豊かな生活が実現するためには、一年の仕事が順調であることであった。そこで新しい時間の最初に、おもだった仕事をまず始めることによって一年の無事を祈った。正月二日は商店では初荷(はつに)・初売(はつう)りであったし、農家では仕事始めであった。男衆は春先からの農作業の準備と関係する、ムシロ・ネコ・俵・草鞋・草履(ぞうり)などをつくる藁(わら)仕事や、田植えのときに苗を束ねて縛るナエデワラ作りなどを軽くする程度であったが、養蚕(ようさん)の盛んなころは蚕のコモを編んだり、蚕種を消毒したりしたこともあった。またまねごと程度に鍬(くわ)をもったり、田んぼの麦に下肥(しもごえ)をくれたり、あるいはりんごの剪定(せんてい)をしたりする家もあった。女衆は着物を縫ったり機織(はたお)りや糸をつむいだりした。ウチゾメといってそばやうどんを打つ家もあった。また、謡曲(ようきょく)の謡い初(うたいぞ)めや将棋の初手合わせをする人びともいた。繰りかえされる時間のなかで、最初に位置づけられた時間は、特別な意味を人びとにあたえていたのである。