一人前の仕事はできなくても家族の一員として、それなりの仕事の分担を果たさなければならなかった子どもにとって、正月は祭りとともに仕事から解放される数少ない機会であった。その楽しみはおいしい御馳走を食べ、きれいな着物を着、家族や久しぶりの親戚の人びとと遊ぶことだけではなかった。地域における果たさなければならない、集団でおこなう作業があった。
芋井では十四日・十五日に道祖神の祭りがおこなわれ、十四日早朝に男の子たちが道祖神碑前に巣まる。親方・御神体(ごしんたい)持ち・オンベ(御幣)持ち・袋持ち・金袋持ち・ほら貝役などの役割を決め、「セイミのカンジのカアーンジ銭でも金でもカクカクと 大ジャレ小ジャレ」などと大声で唱えながら各戸を勧進(かんじん)に回り、御祝儀(ごしゅうぎ)を集める。御祝儀金は子どもたちで分配し、米や餅は親方の家で調理して振る舞われる。御神体は幣束(へいそく)であったり、木の人形であったり、色紙を折ってつくった男女の神であったりする。これは十五日の夕方におこなわれるドンドヤキ(ドンドンヤキ)をする前に焼く。ドンドヤキは市内全域でおこなわれ、道祖神の祭りとして、子どもたちが中心になっておこなうところが多かった。
今でこそPTAや公民館や育成会などがかかわることが多くなったが、かつてはもっとも子どもたちが活躍するときであった。各家を回って門松(かどまつ)などの正月飾りや藁をもらい集め、芯棒(しんぼう)として立てたハゼ棒や芯松などに巻きつけドンドヤキをつくる。お札や達磨(だるま)を飾ったり、注連縄(しめなわ)を見栄(みば)えよく巻いたりした。ジジ・ババなどとよんで二つつくるところもあった。子どもたちの手に負えないところは、若者たちに手伝ってもらうことがあったが、ほとんどは子どもたちが力をあわせておこなった。道祖神碑のそばの田んぼや辻につくることが多かった。その形はどこでも同じようなものであったが、上石川(篠ノ井)や長谷(篠ノ井塩崎)ではオスガタとよぶ藁でつくった男女の人形を焼く。男女の性器を強調するところは、芋井地区の御神体と同様であるが、これらの人形は年の初めにあたって、村や人びとの災厄を払ってくれる存在と考えられた。
道祖神の人形こそつくらなくても、男根や女陰の形をつくり、その性的な側面を強調し、子どもたちの勧進の折に用いたり、道祖神碑に供えたりして、縁結びや子宝を祈るところは各地に見られる。また篠ノ井や日詰(ひづめ)(芹田)などでは男根の作り物を神像として恒久化している。日詰西組などの道祖神講では、「衢祖神」と彫ってあるオンマラサマを当番の家で祀っている。道祖神を祀る道祖神講の祭りは、小正月におこなうだけではない。栗田上組(芹田)では六月十五日にもおこなうが、やはり良縁や子宝を願うと説明している。
生活空間の境にあって、災いを避け、排除しようとした神が、その上に性的な側面を取りこむことによって、男女の境をひらき、あるいは家と家とを結びつける性格をもつけ加えることになった。かつて松代城下においては小正月に町の人びとが道祖神のご神体をもって城主をはじめ支配者層を寿(ことほ)いだというが、周辺地区に現在でもその痕跡(こんせき)を残しているかのように見えるのは、その災いを避け、一家の繁栄を祈る願いが、いかに切実なものであったかを示すものであった。