漂流する人びと

481 ~ 483

かつて村の人びとは、一定の屋敷と耕地、そして共有地を中心とする村の空間を日常の生活空間とし、そこで世代をこえて生活を営んでいた。いわば大地の上に記された特定空間が、生涯を託すべき空間であった。村の外に出るのは特別のときであった。旅に出たり、一年のうち何度か町に出るだけで、日常生活のほとんどを限られた村の空間世界のなかで暮らす人びとは少なくなかった。したがって、村の人びとの存在は何世代も前からの歴史を背景として認識され、その家と結びつけてとらえられていた。永続するであろう家や地域社会に世代をこえて定住し、その生活空間と人びとの生活とが深く結びついていた。そここそが安住の地ともいうべきところであったのである。

 しかし、時代の変化のなかで物や人びとの動きは激しくなり、生活は特定の村空間に固定されることが困難になってきた。学校教育は異なる村の子どもたちの交流する場となり、高等教育においては、さらに広い社会と触れあうことになった。そして生涯をかける仕事を村の外に求める若者もしだいに多くなった。かつて村の労働力の中核を占めた若者は、村の外に生活の場を求めるようになった。その結果、村組織に大きくかかわっていた若者集団の活動はしだいに衰弱し、祭りの笛や太鼓の音色も寂しいものになっていかざるをえなくなった。それとともに生活空間は拡大しつづけたのである。とりわけ高度経済成長によって、村の生活構造は変化し、専業農家は年を追って少なくなっていった。超世代的に地域社会のなかで生きることを前提とした生活は、維持されにくくなった。家や地域社会においてもさまざまな生き方がおこなわれるようになり、人びとの価値観も多様化してきた。住宅地化によって農地が減少し、若者たちはさまざまな職業に従事するようになり、兼業農家の割合は増大した。ジイチャン・バアチャン・カアチャンによるいわゆる「三チャン農業」だけではなく、農業経営それ自体が成り立たなくなったり、住まいを村の外に移動させたりする家も出てきた。地域社会はすでにそうした動きをとどめる力はもちえなくなっていた。

 朝、露を踏みしめて野良に出て働き、星をいただいて帰る村の生活は、自然の推移や家族の暮らしぶりとともにあった。しかし、会社や工場、あるいは町の商店などに通勤して生活の糧(かて)を得るようになると、その生活は個人や家族あるいは村社会の生活のリズムにもとづいて営むことはできなくなった。より多くの人がその生業ごとの共同の生活を営むために、それぞれの職場の時間の推移にもとづいて営む生活が求められたのである。朝のテレビ画面に映しだされる時間を横目で見ながら食事をして、バスなどの時間に合わせて家を出る生活は、家族そろって食卓を囲むこともできない家族を生みだした。また、学校から帰ってきても迎えてくれる親のいない子どもも増えてきた。「かぎっ子」などということばも生まれた。村に流れる時間は、家ごとに、あるいは人ごとに異なり、それは分単位で計られる時間であった。豊かな生活を求めつづけて、私たちの日々の生活はいっそうあわただしくなり、多様になってきた。

 こうして人びとの生活は、空間的にも時間的にも個別化し、細分化されてしまった。たとえ暮らしを共通にしていても、人びとのよるべき価値観は、そのときどきで異ならざるをえないことになった。世代をこえて特定空間のなかで価値を共有することなど、考えることさえできなくなった。血縁的にも地縁(ちえん)的にも安住する場を失ってしまった人びとは、漂うがごとき生活を営まざるをえなくなった。それゆえに、地域社会やさまざまな社会集団は、その内部においてより共有すべき価値について関心を強め、さまざまな行事や儀礼を生みだすことになった。そのことがより生活の複雑化を進展させることにもなったのである。


写真180 朝のラッシュアワー(長野駅前 平成15年)