都市長野を特徴づける行事の代表的なものが、長野の御祭礼であった。京都の八坂(やさか)神社の祭神と同じ素戔嗚命(すさのおのみこと)を祭神として祀(まつ)る、上西之門町に鎮座(ちんざ)する弥栄(やさか)神社の祭りである御祭礼は、祇園(ぎおん)祭ともよばれていた。長野の町におけるその起源は明らかではないが、中世にさかのぼるとされている。善光寺の直属の町である御門前二町と、八町が古くからの町であり、これらの町内の祭りとして営まれてきた御祭礼は、明治時代に復活して以来、長野の町の発展とともに、参加する町内は増加してきた。悪疫退散のためにおこなわれるようになったという伝承をもちながら、しかし、馬に乗ったお先乗(さきの)りの稚児(ちご)を先頭にして、町ごとに豪華な山車(だし)が練りあるく、華やかな御祭礼は善光寺商人の経済力を示すものでもあった。
近世において御祭礼の巡行(じゅんこう)は、東方と西方との町内が張り合っていた。御祭礼に参加する町が大門町通りを境にして、善光寺大勧進(だいかんじん)と大本願(だいほんがん)とにそれぞれ所属していたからである。明治以降町の発展とともに参加町内が増加すると、古くからの町々と新興の町とが張り合う、いわゆる南北の対立が多くなった。長野の町のあり方が、祭りのあり方と深くかかわっていたのである。それだけ御祭礼は町という地域社会と深くかかわっていたということもできる。
だが、町がしだいに拡大し、商人の経済力のあり方が変化し、特定地域の商人が祭りを支えるために、巨額の経済的負担をしつづけることに耐えられなくなってきた。さらに町村合併による市域拡大のなかで、善光寺界隈(かいわい)の祭りである御祭礼は、全市の祭りとしての意味合いが薄れた。それとともに、御祭礼の華やかさは薄れてきた。そして、全市を挙げておこなう祭りが求められることになった。