祭りにともなう長野の町のにぎわいと、全市民が自由に参加できる祭りにたいする要望は、時代の要請でもあった。市民のさまざまな願いをになった祭りは、その期待や要望が大きければ大きいほど、新しい形を求めた。
都市のにぎわいは、そこに世代をこえて定住する人びとだけで成り立っているわけではない。それは、後背地(こうはいち)ともいうべき近郊地域から訪れる人びととともに、つくりだされるものであった。町の発展は、仕事の場として、あるいは都市の華やかさや匿名(とくめい)性などの、非日常的なあり方を求めて一時的に訪れる人びとの存在が欠かせないのである。それが都市の発展とにぎわいとを支えているのである。しかし、歴史に裏打ちされた地縁社会を基礎とし、その地域の安全と発展とを祈るために特定の神社と深く結びついた祭りは、必然的に地域が限定され、当該地域以外の人びとは、見物人としてしか参加できない性格をそなえていた。
町を訪れる人びとが、一時的な非日常性を満喫(まんきつ)するために、見物人としての立場に満足しているあいだは、それでもよかった。しかし、合併により市域が拡大し、周辺農村に住みながらも町を職場とし、一日のうちの大部分を町ですごす人びとにとって、町の祭りは単なる見物人で満足できるものではなかった。そして、さまざまな主義主張をもち、多様な価値観をもち、異なる職種に従事する人びとで、さらに居住地さえも異(こと)にする人びとを取りこみ、いっそうの町のにぎわいを実現するために営まれる新しい祭りは、地縁・血縁だけではなく、職縁・心縁など新しい人間関係観をふまえた祭りでなければならなかった。
そうしたなかで、昭和三十二年(一九五七)には「祇園祭反省研究会」が創設され、祇園祭に付属しておこなわれていた俄物(にわかもの)行列は、祭事から独立した「長野夏まつり」と「夏祭り前夜祭」(広告祭)になった。その後いく度かの変遷をへて、昭和四十六年には長野市主催の「長野びんずる」(市民祭)として再編された。伝統的な町内会という地縁社会を基盤とした信仰的行事とは別に、行政としての全市をあげて、個人としての市民がだれでも参加できる祭りの創設である。
善光寺と深くかかわる長野市の祭りということから、善光寺法灯からの採火式という儀式をもって祭りは開始されるが、特定の宗教とは無関係におこなわれ、信仰的色彩は希薄である。「長野びんずる」の中心は「連(れん)」とよばれる参加者集団のびんずる踊りである。「連」は臨時に結成される集団であって、地縁だけではなく、社縁・学縁を中心としている。しかも、時の経過とともに地縁にもとづく連はしだいにこの祭りから離脱していった。個々の人びとの結びつきを中心とし、打ち鳴らすしゃもじの音とともにそのエネルギーを発散させる真夏の一夜には神は必要なかった。神なき祭りの出現であった。