解説
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松代城は永禄3年(1560)、甲斐の武田信玄が、越後の上杉謙信との「川中島の合戦」(1553~1564)の際に築城した「海津城」がはじまりとされている。その後、戦国の動乱とともに城主が移り変わり、森忠政が城主となった慶長5年(1600)に「待城」と改名された。次の松平忠輝の時に「松城」と呼ばれるようになり、その後、元和8年(1622)に真田信之が上田から移封され、真田3代目藩主幸道のときに幕命により「松代城」と改名されたと伝えられている。 松代城は背後を流れる千曲川がたびたび洪水を起こしたため、その修復と千曲川の改修を何度も行っている。中でも「戌の満水」と呼ばれる寛保2年(1742)の被害は大きく、幕府に城普請の許可を得るとともに、1万両の拝借金を許された。また、二の丸を焼失した寛永2年(1625)、本丸・二の丸・三の丸を焼失した享保2年(1717)、花の丸を焼失した嘉永6年(1853)など、城内での火災もたびたび起こっている。こうした浸水被害を受ける本丸にかわり、江戸時代の中頃からは本丸の南西にあった花の丸御殿が藩主の政務の場及び生活の場となった。 明治5年(1872)に廃城となった松代城は、城内の土地・建物を順次払い下げられ、桑畑として開墾され、建物も取り壊された。また御殿のあった花の丸は、同6年(1873)に放火され焼失した。 平成7年度より16年度にかけて門の復元、石垣の修復、堀・土塁の再現等の環境整備事業が実施され、江戸時代終わりごろの姿に限りなく近い状態で再現されている。
新御殿(真田邸)は文久2年(1862)の参勤交代の廃止により、江戸から帰った松代藩8代藩主真田幸貫の嫡男幸良の夫人であった貞松院のために、元治元年(1864)に松代城三の堀の南側に隣接して造営されたものである。造営当初は、貞松院の居宅として使用されていたが、その後9代藩主幸教の隠居所、また明治維新後は真田家の私邸として使用された。 邸内には御殿と土蔵7棟、長屋などの建造物や庭園がある。江戸時代の庭園を有する御殿建築は、全国でも類例が少なく貴重である。
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