解説
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永井家は代々善光寺門前町の花街権堂村の名主を務めた旧家で、その屋敷は表権堂(現中沢病院の地)にあった。同家は明治以後何度か移転したが、先祖伝来の古文書(こもんじょ)をほぼ完全に保存している。門前町の花街という特殊な村の名主だったことから特殊な史料が数多く所蔵されており、その中でも重要な二点十三冊が指定されている。
(1) 五十槻(いつき)園旅日記 伊勢御師(おし)、内宮権祢宜荒木田(宇治)久老(ひさおゆ)(1746~1804)が天明六年(1786)に北信濃の檀家を回って歩いた日記の写しである。 久老は賀茂真淵(かものまぶち)の門人で、『万葉集』などの研究で知られる国学者である。宇治家に養子に入り、家督相続のあいさつと寄付金を集めるために、現長野市(犀川以北)を中心に戸隠・豊野・三水(さみず)・牟礼(むれ)などの檀家を回った。この文書から、伊勢神宮が全国に張りめぐらした師檀制度や、当時の農民の実態を知ることができる。「新編信濃史料叢書」第十巻所収。 (2) 地震後世俗話之種 権堂村名主永井善左衛門幸一(さちかず)が書いた、弘化四年(1847)の善光寺大地震の記録である。正編五冊・後編六冊からなり、大きさは縦26.5㎝、横19㎝である。この地震が起こった当日、善光寺境内の出店にいて地震の惨状をつぶさに体験した彼は、自分の見聞した被害状況を記録し、また、絵が巧みだったので、詳しく描いて挿絵とした。 その絵は近世後期の善光寺町の景観を知るうえでも第一級の史料であり、絵の一部は『弘化四年善光寺大地震』(信濃毎日新聞社編)・『写真にみる長野のあゆみ』(長野市刊)などに掲載されている。 また、全文が『善光寺大地震図会』(銀河書房刊)という題で刊行されている。
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