昭和四十三年一月、町史編纂委員会の結成以来、十年にして漸くに町史の発刊を見るに至った。この間約二年間の空白期間があったとはいえ、委員諸氏の熱心なる努力と、町当局の御支援、特に町民各位の積極的な御協力に支えられて、今日に至ったことを思うとまことに感無量のものがある。
編纂委員会の出発にあたって、(一)町在住者の手によって執筆すること。(二)出来得る限り平易な文章を用い、難解な用語を避けること。(三)学問的な態度で対象を把握し、偏見をさけて、日本の歴史全般の研究の上に些かなりとも寄与すること。以上の目標を申し合せたのであるが、委員一同は従来全く歴史学には無縁のものばかりであったので、最初はまず近世古文書のよみ方、史料の扱い方という初歩の段階から出発した。この間、海保四郎・川村優・江沢半氏などの諸先学が顧問となることを快諾せられて、終始懇切なる御指導をいただいたことはまことに感謝にたえない次第であった。また民俗の調査については大島健彦博士が東洋大学の学生諸君と共に来町調査せられて、立派な『長柄町の民俗』を刊行して下さった。しかし後述のような事情で、この成果を町史の上に充分反映させる事の出来なかったことをここでお詑びしたい。また昭和四七年、考古学の分野を御担当して下さっていた江沢顧問が、不幸急逝せられた。止むを得ず、斯界の権威であられる斎藤忠博士(元東京大学教授、現大正大学教授)に御願したところ、御快諾を頂き、委員一同夢かとばかり驚喜したのであった。
斎藤博士は来町調査せられて、長柄山一帯の繩文土器の重要性を御指摘になり、繩文土器編年研究の第一線に立つ佐藤達夫東京大学教授を御推薦下さり、この両権威の全く無償の御尽力で、長柄町の横穴古墳の全貌、および繩文時代の全国的に見ても稀な大遺跡の存在が明らかとなったことは、まことに委員会として望外の喜びであった。しかるに昨秋以来病臥せられていた佐藤教授は町史の刊行をまたず、この四月逝去せられたことはまことに残念で心から哀悼の意を捧げたいと思う。
この長柄町は、今まで全く研究の鍬の打ちこまれなかった未墾の地域であって、委員会発足の頭初にあたっては、歴史というよりも、地誌的な記述に終るのではないかと危惧したのであったが、求むるにつれて資料が出現し、結果はかねて予想した以上の尨大なものとなった。しかし近代篇の一部、および現代のほとんど全てが、原稿は完成しておりながらも予算の関係上から割愛の止むなきに至ったことは編集者として痛恨の限りであり、かつ申し訳ない次第である。
特に篠田・仲村・増田各委員の執筆せられた近代(昭和二〇年以前)の農業、社会教育、文学、方言、交通、商業など約二五〇頁、宮沢・篠田委員が主として執筆せられた現代篇のすべて約二〇〇頁、大野・大高・高吉その他の委員の執筆せられた金石文・地名・屋号一覧・参考文献表・年表など、地域史研究として欠くべからざるもの約五〇頁、加うるに民俗篇など収載する事の出来なかったことは、まことに残念で、執筆せられた方々の御許しを頂きたい。また資料篇を刊行なし得ない事情から註になるべく収めることを頭初企画したのであったが、特に古代、中世篇において頁数の関係で削除したことも読者にお詑び申し上げたい。
私たちはこの地域の諸相のさらに深い究明の必要を痛感し、研究会を結成し、前記の未発表の原稿もふくめて「長柄文化史研究」(仮題・年刊)の刊行を企画していることを申し上げて、多くの町の方々その他の御参加を賜わりますことをここでお願い申し上げる次第である。
末尾ながら、町史研究刊行を企画した故岡本郁朗前町長、および理解御後援を惜しまれなかった川島美董現町長ほか、歴代の総務課長をはじめ町役場ならびに関係役職の方々に心から長い間の御支援に対し感謝の意を申し上げたい。また、故佐藤教授と共に御調査いただいた戸田哲也(成城大学)先生をはじめ、成城大学及び大正大学その他の学生諸君の労にも感謝申し上げたい。
また増田義朗編纂委員長が八十八才の御高齢でありながら、矍鑠(かくしゃく)として御指導賜わり本書の題字を御執筆して頂いたことに、深く敬意を払うと共に、編集長として不敏な非才の私の足らざるを補って下さった諸委員に、心から御礼の言葉を申し上げさせて頂きたい。また写真は斎藤忠博士、および大野委員大高委員の撮影したもの、および教育委員会の林平氏のものを使わせて頂いた。
出版にあたっては小宮山書店主小宮山慶一氏が、長柄町徳増に別荘をおもちの関係から採算を度外視されてお引受け下さり、多大の迷惑をかけたこと、また島田精版印刷が短期間に完成して頂いたことはまことに感謝の至りである。これまた心から御礼申上げたい。
昭和五十二年春
永井義憲