現在住んでいる、そしてそこに生まれ育った私たちにとって、この長柄町の歴史、すなわちいつのころから人が住み、どんな生活をして、今日まで至ったのか、ということを知りたい気持は、誰でもが持つ感情であろう。現在は過去の延長であり、現在の私たちの生活も慣習も、また性格や感情も、突然出来上ったものではなく、たどって見れば必ず原因があり、歴史的な変遷があるという事を知った時、あらためて私たちは、過去のこの長柄に対し、さらによく知りたいという心が湧いてくる。
むかしはどうであったか? その探求が、歴史という学問を生長させて来たのであるが、考えて見れば現在の長柄町をふくめて、ほぼ長生郡の南一部を除いた地域が、かつて長柄とよばれていたことは、約一千年以上前の文献『延喜式』で、はじめて知り得るのだが、さらにさかのぼって、いつごろから人が住んだのか。私たちが日ごろ目馴れている、このふるさとの自然や地形は、どうして出来上ったかということも、私たちは知りたくなってくる。
そのような過去の諸相は、日本全体を考えた時には、多くの学者たちの手によって究明されて来たし、また現在もその努力は続けられて、かなりのところまでは、明らかとされて来たと言ってもよいであろうが、しかしこの長柄という土地に限って言えば、今まではまったくと言ってもよいほど、研究の鍬はうちこまれなかった。
その原因としては房総半島のほぼ中央部に位置して、交通の便にめぐまれなかったこと、研究者の来往が少なかったこと、今日まで日本の歴史の動きに参加するような人を産まず、特殊な産業も発達せず、かつ中世以来弱少な土豪の割拠や、近世に入ってからも、あまりにも細分化された旗本領が入りまじっていた為に、武力の点からも、文化の点からも中心となるものがなく、他からの関心の的とならなかった事が数えられるであろう。しかし研究が無かったということが、ただちにそのような研究の対象となるものが、全くなかったという事にはならない。多く存在しながらも、それらは今まで気づくことなく、忘れられていたというのが正しいであろう。
いま過去の長柄のすがたを明らかにしようとする時、当然この長柄の地のみが孤立していたのではなく、その周辺の広い土地や人びとと共に多種多様な交渉影響をお互にもちながら、今日まで歩んで来たのであり、かつて「総(ふさ)の国」とよばれたこの房総の地、いや日本の国そのものと共に、長い歩みを続けて来たことは当然の事であろう。それらの大きな社会の歩みのあとをたどるだけの事であるならば、ある程度は多くの文献や、先輩の学者の研究が存在し、それらのうちからこの長柄に関連する事がらだけを抜き書して、時代順にならべて見ることによって「長柄の歴史」を構成することも出来るであろう。これならば机上の作業で、簡単にまとめ上げることが出来るとおもう。しかしこれは中央の眼から見た長柄の歴史であって、決してこの地に住んでいる人たちからの眼で見た、歴史とは言えないのではなかろうか。
この私たちが深い愛情をそそぐ長柄の歴史を、ただ通りすぎる旅人の目・傍観者の立場からではなく、その土地に住むものとして、長柄の立場から観察し考えて行きたいという、念願のもとに発足した私たちの町史の研究は、多くの年月を費しながらもここに見られる通り、必ずしも十分に私たちの最初の意図を反映したとは言えず、ある意味で不満のみが目につき、恥ずる思いのみが先立つのであるが、ともあれひとつの結果として、ここにまとめて世に送りたいと思う。