研究のあと(1)

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長柄という地名は古い歴史を持っているし、その地域も歴史の上では、ほぼ現在の長生郡全般をふくむ地域だが、いま私たちの住んでいるこの長柄町(旧水上・日吉・長柄三村)に対して、今までどの様な研究や、記録が残されているだろうかということを考えて見たい。おそらくこの地域に対する記録として、最初に書かれたものは『上総風土記』であろう。『続日本紀』によれば和銅六年(七一三)に、畿内・七道の諸国に、郡や郷の名に好い字をつけ、そこの産物をのべ、土地の質や山川原野の名の由来や、古老の伝えている旧聞異事を言上せよ、との勅命を下したと記されている。おそらくはすべての国から、一冊の書として報告せられたであろうが、今は常陸(ひたち)(茨城)播磨(はりま)(兵庫)の二つのみが、その時のものであろうとされている。
 その後約二十年たって天平五年(七三三)に、出雲(いずも)・豊(ぶん)後・肥前(ひぜん)の三国のものが成立しているが、これらはその一部分のみが残っているにすぎない。いま『風土記』とよんで古代を知る重要な文献とされているが、当然そのころこの上総の国からも奏上せられた筈であり、そこには当然長柄のこともあったのであるが、しかし今は残っていないのは残念である。それらの本の一部が後世の他の本に引用せられて残っているのを『風土記逸文(いつぶん)』というが、上総に関するものはほとんど無い。ただ『国花万葉記』(巻十)に、「下総・上総は、総(ふさ)は木の枝をいう。昔この国に大きな楠が生えた。長さは数百丈に及んだ。その時帝はこれを不思議に思ってこれを占わせ給うと、神祗官の役人は奏上していった。「天下の大凶事である」と。これによって彼の木を斬り捨てると南方に倒れた。上の枝を上総といい、下の枝を下総という。(1)風土記。」とあって、古い『上総風土記』の一節のような記し方の一文がある。
 この『国花万葉記』は元禄一〇年(一六九七)に刊行された地誌で、この記事は『総国風土記』とよばれるものからの引用である。この書は、全国の風土記を集めた形式をとっているが、どれも完全な書ではなく、一部分の残欠本のような形で奥書に嘉慶二年(一三八二)の書写の年号があり、いかにも古めかしい記載である。そのうちの『上総国風土記』には、まず最初に前に引いた上総・下総の国名の起原を「風土記に曰く」として引用し、次に「長柄郡」として名山七ケ所、岡四ケ所、河四流などとあり。産物をあげ、刑部郷は公穀七百六十二束三畝田、仮粟六百二十五丸三字田。橘柚香柑桑麻練糸等を貢ぎ、次に豊岡神宮のあることを記(2)しているが、これは偽書で、実は室町中期の駿河国浅間神社の神主の作ったもので、全く史料としては信用出来ないものである。上総の国名の由来については、『古語拾遺』の麻のよくそだつ所から出た総の国説の方がよい説であろう。したがって長柄のこの地にふれたものとしては、平安初期の成立の『延喜式』によって、上総国に長柄郡がある事を知り得るし、源順(九一一―九八三)の撰という『倭名類聚鈔』(略して和名抄)によって、この長柄郡には刑部郷以下五つの郷のあったことを知り得るのが、現存の確実な文献に現われる最初の記述である。
 上総全般について述べたものはなおいくつかを数え得るのであって、それらは立野良道の『上総志総論』の「提要」によく蒐集せられている。なお「上総志引用書目」を見ると、その稿本にはこの長柄のことにも多く触れていた事と思われるが、残念ながら八十余巻の書、すべて焼失してしまったので今は見ることが出来ない。これより前、具体的に自ら採集し、記録したものに、中村国香の『房総志料』があるが、これも長南のことは記しながら、足跡がこの長柄の地に及ばなかったことはまことに残念である。
 この『房総志料』を基として田丸健良が数倍に増補し、さらに各地を旅行した見聞を記した『房総志料続篇』(4)に至って、はじめて長柄の地に足跡を印した人の手による記録を見ることが出来る。田丸健良は夷隅町の人、弘化三年(一八四六)に七二才で歿したがすぐれた医師であり、儒学の教養あるのみならず、四五才の時仏門に入り温厚篤実の人柄は、すべての人から尊敬せられ多くの著述があったというが、この書は実際にその地での見聞を採集記録したものであって、まこと貴重な記述に富んでいる。現存の「江戸道中日記」(5)によると、文政十三年(一八〇〇)天保四年(一八三三)から五・六・九年と、この長柄の地を通りすぎているが、他にもおそらくは何回も訪れたのではなかろうか、加うるに房総叢書収本は中村国香および立野良道の筆述が、符号によって区別せられている為に、このすぐれた三人の郷土研究者の各々の説をたちどころに知り得る点至って便利であって、具体的に長柄の地を記した近世における唯一の文献として高く評価せねばならない。
 なお明治に入るとまずあげねばならないのは『上総国誌』(6)である。著者の安川惟礼は柳渓と号し、明治十二年ごろわずかの期間だが、岡本監輔の励業学舎に招かれた関係もあって、この中に胎蔵寺・飯尾寺や六地蔵・千代丸・舟木などの事を記しており、その中には今は全く伝承を失った貴重な記述や、古記録を見ていることも判明する。しかしその他の地区には言及していない、続いて『上総町村誌』(7)(明治二二年刊)がある。小沢次郎左衛門の編集だが、この長柄について全般的に述べたのはこの書が最初であって、おそらくはその基となったのは各村から報告書であったらしい。
 維新前の領主名・戸数・人口・馬の数・段別・税金額・氏神・寺院はどの村についても必ず明記し、さらに伝説・名勝・古跡・地名の変遷など付記せられ、簡潔ながら明治中期の町村合併直前の各村の実態を知り得る、唯一の資料的価値の高いもので、長柄についても従前の書に見えず、この書に初めて記されたものもあって、このたびの町史の執筆にあたってもこの記載によるところが多い。
 さらに大正年間に入って特筆すべきものに、郡教育会編の『長生郡郷土誌』(8)がある。千葉県における各郡別の郷土研究の先駆ともいうべき書で、房総の沿革・長生郡の沿革・郷名・山川・城趾・神社・仏閣以下一七章を上篇とし、各町村誌を下篇としているが、長柄に限って言えば総頁数二三頁にすぎず、記述も従前の書よりの抜き書きの印象が強い。その後も多くの地方史関係の文献著書が多く刊行され、特に『房総叢書』第一次(大正元―三年)二冊は、前掲の諸書をはじめて活字として流布せしめた功績は大きく、これをさらに増補改訂した、紀元二千六百年紀念刊行(昭和一六年)の第二次『房総叢書』十一冊は、郷土の歴史をたどる為の過去の文献をほとんど集成した業績だが、しかしここにおさめられた諸書にも、この長柄の地に関してはその対象が著名な寺社(胎蔵寺・笠森寺・武峰神社)、その他二三の伝承(安然、秀胤など)をくりかえしのべているだけで、特記すべきものはほとんどないことは残念である。
 この中にあって日本のすべてを対象とした『大日本地名辞書』は、吉田東伍博士の偉業で明治二八年より起稿同四〇年に一応完結したが、その後増補改版されて昭和四〇年に完成した。地方史研究の際の基礎的な文献でこの長柄の地についても、学問的に刑部郷・管見(つつみ)郷など古代よりの地名も解説、適確な歴史的断案を下している。項目は僅か一〇項にすぎないが、郷里を知る為にまず見なければならない書である。しかし例えば「六地蔵」の項に「武峰・一名高星山。武峰神主黒巣氏文書あり、荒誕(でたらめ)信拠し難し」というが、これは実地に踏査したのではなく、文献だけで解説執筆した為に山名を誤り、また黒須家文書も実際には見ずに前掲の安川柳渓著『上総国誌』に、記したものを読んでの判断であろう。
 また別に特筆すべきものに『長生郷土漫録』がある。長年下永吉にあって、郷土の研究に力を注いで来た天然と号された、林寿祐翁の執筆した随想の集録であるが、広い視野から書名のごとくに、長生郡全域にわたる考察であり、参考とすべき記述も多いがしかしここでも、長柄に関するものは一〇頁にもみたぬものである。以上のように長柄に関連ある事を記した書は多いが、すべて通過する旅びとの眼に映じた奇聞異事か、または報告書の編集にすぎなかったといわざるを得ない。