研究のあと(3)

32 ~ 33 / 699ページ
この長柄町史は以上のような過去の研究を受けて昭和四二年発足したが、在住者の手によるその土地の研究という新しい方法をとり、今までの先学の研究を吸収するばかりでなく、新しく死蔵せられている文書や、未知のままに秘蔵せられている文化財の発見に力を注ぐ事となった。すでに昭和二十年ごろからこの地方の諸家に蔵せられている、地方文書を採訪して近世の農村史の解明を心がけておられた、海保四郎氏の助言と協力および県史編纂室におられ、すでに『本納町史』を著わされている川村優氏の指導によって、全く素人の集りと言ってもよい、町史編纂委員会が発足したのであるが、この長柄の地を対象とする研究は、ここに始めてその第一歩を踏み出したというべきである。
 この委員会発足後の一つの仕事として、大島建彦博士の指導せられる、東洋大学民俗研究会による、『長柄町の民俗』(昭和四七年刊)の刊行がある。同会の研究活動はすでに学界に定評があり、全国各地の調査を行って、その調査を公刊して来たのであるが、その第八回目の調査として長柄町をえらんで頂いた。町史として民俗の調査は欠くべからざるものであるが、専従する事の出来る委員を欠く関係から、大島博士に依頼したのであったが、大島博士の御厚意により昭和四五年に数回の予備調査を行い、四六年の三月下旬および八月上旬に、それぞれ十日間五十名を越える学生諸君が、数ケ所に分宿せられ現地調査が行われ、外に数回調査に採訪せられて二九〇頁の研究報告をまとめて頂いた。
 内容は (一)概観 (二)社会組織 (三)人の一生 (四)衣食住 (五)生産労働 (六)年中行事 (七)信仰 (八)芸能 (九)口承文芸として、生活の諸相すべてにわたって、直接町民の方々に会い質問し、その答を整理されたもので、始めて私たちの住んでいる周囲のことが、明らかとなったことは誠にありがたい事である。特に芸能の部で、大津倉の「ミコオドリ」の舞の手を綿密に記録してくれた事は、一度は廃絶に決定したこの文化財を復活せしめ、また将来も正確にいつでも再現出来る、手掛りを与えてくれた点で貴重であろう。最初はこの一冊の大部分を、町史の民俗の部に再録する筈であったが、紙数の関係で割愛したことをここで報告しておきたい。
 ついで昭和五〇年からの横穴及び繩文時代遺跡の考古学的調査がある。これより前、昭和三八年から四二年にかけて、上智大学史学会を中心とする一の宮川流域を中心とする、考古学民俗学的調査が行われ、その結果は『東上総の社会と文化』(昭和四八年刊)として公刊されている。この中で榎本・徳増・鴇谷・立鳥・針ケ谷の横穴も調査されているが、この調査が一の宮川下流を中心とした為に、上流のこれらの地域は五頁ほどのなかに説明されているにすぎなかった。しかるに日本の考古学研究の第一人者であられる斎藤忠博士が来町せられ、横穴の一部および長柄台地の遺跡群を一覧せられるや、その重要性に気づかれて以後十回に近く来町せられ、また特にその御配慮をいただいて五〇年四月下旬、繩文土器に関する権威佐藤達夫教授(東大)指導のもとに、亀ケ谷遺跡を中心に発堀調査をせられた。ここに始めて長柄の古代史は明らかにせられたわけで、その結果は研究篇に報告せられている。
 すなわちこの長柄の地は、町史編纂のための研究によって、始めてその歴史的研究が行われたのであるが、実は漸くその概観を展望し得るに至ったのみで、細部にわたってはなお未解決の分野、問題が非常に多いのである。