歴史的資料の発見と課題

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町史の委員会発足以後、従来は全くその存在が知られずあるいはすでに近世の文献によって、報告せられながらも確認せられなかったものが、世に出でた例はいくつか数えられる。年代順に言えば前述の先土器時代(土器を作ることを知らなかった時代)から、すでに人がこの地に住んでいた事を証する出土品があることなども貴重なことであるし、繩文土器の時代を分けて前・中・後・晩期の各時代の数千年にわたる遺跡が、亀ケ谷(長柄山)を中心に近距離に散在し、特に他にいまだ発見されていない新型式の土器さえ見出されている事は、今後の房総の文化史全体を見渡す時にも甚だ重要であろう。
 また横穴調査の終ろうとする時期にいたって、前方後円墳を徳増の丘陵上に見出したことは特筆すべきであろう。従来この長柄町の地域内には、この型式の古墳は無いとされていたのであるが、しかしこの発見以後気をつけて見ると、他にもなお散在するのではなかろうか。昭和二二年ごろ現在の長柄町庁舎後方約二〇〇米ほどの丘陵上から、はにわが出たという噂があり円筒破片が僅かに一箇伝存していたが、誰も気づかなかった為に、このような貴重な発見に結びつかなかったのである。横穴も今回調査なし得たものが約三三〇を数え得るが、なお丘陵の中腹などに埋没している可能性は甚だ多い。
 刑部の新宮神社の神像も、土地の一部の氏子の人たちはすでに承知していたのであるが、このたびの町史の調査によって、はじめて世に出た重要な神像で、この五二年二月県文化財の指定を受けたが、この他にも神像あるいは仏像で、なお秘められたすぐれた文化財がある事が推測される。大津倉の篠田家蔵の仏画二点も近世の『房総志料続篇』でふれてはいたが、伝聞とのみ記していたので、その存在を疑いながらも同家を訪れてはじめて拝見した時の驚きは忘れる事は出来ない。力丸の鉄造観音立像も小品ながら注目すべきもので、彫刻家の林勘五郎氏からの御教示がなければ見逃すところであった。
 また文献の上ではその存在を確信しながらも、存否不明であった胎蔵寺(長柄山・現眼蔵寺)中興の上杉朝宗の墓石は、数回の踏査の結果寺背の墓地の一隅に、積み重ったままになっているのが見出された。日本の歴史に現われる人物でこの長柄町に没した、唯一の人ともいうべきこの墓址の旧位置が、未詳であるのは残念だが、少くもこの境内ではあろう事が推測される。ともあれ墓石そのものが発見されたことは喜ばしい。