古文書はなぜ皆無か

34 ~ 37 / 699ページ
以上は中世以前の新らたに見出された歴史上の貴重な遺品だが、残念なことにそれを裏づける文献、すなわち文書がほとんど皆無のことである。何故にこの長柄の地に中世以前の古文書が見出せないであろうか。およそ文献の消滅に次の様なことが原因となるであろう。すなわち、もっとも普遍的なものとしては火・水・虫の害がまず考えられるが、最大のものは人為的な災害であろう。この人によるものをその原因から分類するならば、 (一)戦火によるもの (二)意識的な廃棄によるもの (三)無意識な廃棄によるものが考えられよう。
 この長柄を考える時 (一)としてまず後に述べるが、「禅秀の乱」や、その後の戦乱の時期が考えられる。(二)としては「七里法華」の信仰運動および明治維新の際の旧物破壊や、昭和二十年の日本の始めて経験した敗戦後の混乱。(三)としては和紙払底の戦後の一時期や、昭和四十年ごろ以後の新築ブームをあげたいと思う。禅秀の乱は室町中期にこの上総の守護であり、長柄山の胎蔵寺の有力な外護者であった上杉氏憲(法名禅秀)が、関東公方四代の持氏と不和になり、応永二三年(一四一六)一〇月二日突如兵をあげて持氏を急襲し、一度は鎌倉を掌中におさめたが間もなく翌年の正月一〇日敗北して、一族従者ともに自殺全滅した叛乱をいうのであるが、この時上総の豪族もこぞってこの叛乱に参加したようである。
 しかし主将上杉氏憲が自刃したのちその余党は降伏したが、持氏はこれを許さず厳罰をもってのぞんだので、止むを得ず反抗を続けた。上総本一揆とよばれるのがこれで、その後五年間ほどこの反抗は続き、上総のほとんどすべてで戦斗が断続的に行なわれた。その際この地方の神社・寺院などもその余波を受けて戦火を受けたらしく、これがこの上総全般にわたって中世以前の文書が、現存しない大きな理由であろうかと考えられる。この乱は短期間であるがこの乱が一つのきっかけとなって、以後の室町時代後半の関東は大いに乱れ、武田(長南)・里見(安房)その他の大小の豪族が各地に独立し、あるいは他から移住して勢力を争い、戦乱が絶えずそのための焼失も多かったことが想像される。
 一つの新しい思想が入ると、古くからその地にあったものと衝突して、それを排除しようとするのが当然であるが、「七里法華」とよばれる信仰もその一つで、特に日蓮宗は他宗の仏像や経典を排斥する考えが強い。中世末期に日泰上人が酒井氏の援助を受けて、現在の長生郡山武郡の上総北部一帯の旧寺院を、改宗せしめた運動がすなわちこれで、旧長柄村の大部分はこの地域に入り、ここには全くと言ってよいほど古い仏像や文書などがない。小地域でも日蓮宗が入ると、以前の宗派の遺物を廃棄する傾向が強く立鳥の念仏塚がその一例だが、これは近代に及んでも行なわれたのであって、たとえば明治・大正のころ顕本法華宗の名僧といわれ、この地にも数回講演におとずれた本多日生師は、学者としても著名で管長にもなった人だが、常に「雑乱勧請(ぞうらんかんじょう)」(法華経・釈迦・日蓮以外を寺院や信者のまつること)の禁止を説き、他宗のものを置く事を禁じて廃棄を強く勧めたという。
 この旧長柄村に属する地区には、おそらくは安然和尚の伝説もある様に、道脇寺をはじめ旧天台系の古刹もかつてあり、それらに所蔵せられていた仏教美術や、古文書・古書の類もかつては数多存在したのではなかったろうか。旧道脇寺蔵と思われる中世の文献が、いくつか京都方面や身延にあることは後述のごとくだが、現地には全く存在していないのである。
 また明治維新の際の神仏判然令による、廃仏毀釈も大きな喪失の原因に数えられよう。この地域の場合には寺院に対する極端なる圧迫はなかったようであるが、牛頭(ごず)天王や第六天のような神仏混合の神や、明神・権現などの称号の禁止と、それらの神社の中に本地仏としてまつられていた、仏像や経典の類の排除が行われた。由緒ある神社は必ず寺院が並存し、別当とよばれ、僧が神官と同様の役割りを果していたのが通例であるから、これらの禁止は内容にかかわらず、従前の文書類を一括廃棄したのであって、その量は意外に大きかったと見るべきである。特に修験系統の寺院は痕跡を止めぬまでに破却したのであった。桜谷の帝釈寺のごとく、羽黒天台宗の錫杖頭(上総の最高の寺格)だった有力寺院が全くその姿を没したのであったが、おそらくはその文書が現存していたならば、近世の上総における出羽三山信仰が、現在よりも明らかになった事であろうとその煙滅が惜しまれる。
 続いて昭和二十年の敗戦直後の歴史関係の図書の廃棄である。これは主に官公立の機関に多く、例えば役場や小学校などにある明治・大正から昭和二十年にかけての出版物や、政治家や軍人などの著名人の筆蹟がすべて行方不明となっている。(10)特にこの地域について言えば、戦争末期に榎本に米機が落ちその乗員の処分の問題に関して、米軍の憲兵の来村を聞くや日吉・水上の各役場は、共にあわててそのおびただしい文書を、無差別に焼却してしまった為に、近代の地方行政の基礎的な資料が、ほとんど入手しがたくなったごときは、その極端な例というべきであろう。