今日以後の課題

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私たちは過去を知りたいと思う。そのもっとも貴重な資料は、都会の図書館や博物館などにあるのではなく、この最も大切な資料は山野の土中に埋れ、路傍に立ち、さらには各自の家々に、いまだ世に出ずにいまだ知られないままに、所蔵せられていることを知って頂きたいと思う。ここに出来上った一冊の町史によって、過去の全てが明らかとなったと考えるのは大きな錯覚で、漸くに辛うじて細い路が通じたにすぎない事を、是非知っていただきたいと思う。しかも時間と何よりも大きな問題としては、経済事情のために、執筆しながらも割愛せらねばならなかった重要な多くの記事があったのである。かつ執筆者の努力にもかかわらず、歴史として見た時にはあまりに空白が大きいことを痛感する。
 執筆にあたった人たちの共通な願は、なお多くの資料を得て今後も訂正増補して行きたいということであった。そのために一つの研究の会合をつくり町民の多くの方々の参加を得て、この私たちの郷土を知りたいこと、さらには貴重な知り得た文献文書、なおそのほかに多くの方々の家のなかに、土蔵や物置きの片偶にその所蔵者も内容を知らぬままに眠っているものを、世に出して正しく評価しなければならないことなどが、私たち町に住むものの緊急の課題であろう。幸に数年後にはそうした郷土を知る為の資料館設立の構想も町当局にはあるときく事は、喜ばしいことであるが、是非この町史をよむ町の人たちの広い関心と、御協力を願って止まない次第である。

(1)吉野裕訳『風土記』(平凡社刊東洋文庫)二九九頁
(2)房総叢書(大正二年刊)に全文をおさむ。
(3)増訂房総叢書第六巻所収。
(4)大正二年刊および昭和十六年刊の『房総叢書』所収
(5)江沢中葉氏編『長柄山往来』(昭和四四年油印)による。
(6)『房総叢書』(昭和十六年刊)第六巻。
(7)和綴本五冊、房総叢書(第二次)刊行にあたっても書名のみはあげながら飜刻されていない。現在の如き地方文献の再認識の声高いとき、新らたに紹介されねばならない一つと考える。
(8)大正二年刊最近復刻版が出た。
(9)『南総の俚俗』は「日本民俗志大系」の第八巻に、『津軽口碑集』は同じく第九巻におさめられ、いま容易に閲覧する事が出来る。ちなみに内田家は代々医師で、祖父は長崎でシーボルトに学び、上総で最初に丁髪をきった人であり、叔父は清水晴風で、文部省につとめ『うないの友』(最初の玩具の研究書)を著述、叔母は明治の啓蒙学者であり英文学者であった、神田乃武(男爵)に嫁ぎ、その際馬車一台の和書を持参したという。神田本といわれ有名な「太平記」のごときも、その一つかと推測されると、邦彦翁はかつて語ったことがある。最近まで富士谷御杖の自筆稿本などを所蔵せられていた。亀ケ谷出土の土偶も所蔵せられ、また埴輪男子像数箇は、市原市武士の神社背後の道路工事中に出土したものという。
(10)たとえば日吉小学校は、尾崎咢堂(行雄)筆の額などのすべて、および旧文献蔵書のほとんどが、行方不明となっている。これは当時の校長が、旧物をすべて廃棄するという方針によったが為という。