前にのべたような長柄町西北部の台地と、東南部の樹の枝のように谷の入りこんだ地形のちがいは、どうして出来たのであろうか、結論を言えばこの一〇〇米にもおよぶ高低の差と、地形のちがいは地質の差によるものと考えられるのであるが、まずそれを考えて見たい、長柄町は地質学上四つの地層に区別される。地質図のように、北から成田層群に属する籔層・地蔵堂層・鶴舞亜層群に属する、笠森層及び低地の沖積層がそれであるが、すなわちこの籔層・地蔵堂層とよばれる地域が、高い台地状をなしたところとなり、笠森層の部分が樹枝状の谷を形成しており、川に沿う沖積層が水田に利用され、また聚落の多い地区である事が判るのであるが、このことは地質が地形の変化と密接な関係がある事を語っている。
籔層は木更津市籔が模式地(代表的な地層の露出地)であるが、房総半島の北に広がる成田層よりも古い時代に堆積した地層で、主に砂および礫よりなり軽石やシルトをふくみ、上部は関東ローム層が覆っており、西山・七里野・皿木・追分・長柄山の北の大部分がこの層である。地蔵堂層は籔層の下の層で細砂の厚層で、木更津市の地蔵堂が模式地なので名づけられた層で、上部に関東ローム層がのっている。上野・中野台・上之郷・六地蔵・長柄山・篠網および三沢の北側台地がこの層である。
前に述べたように東南の方から望むと、山脈の様に高くつらなっているこの台地は、急斜面をのぼりきってしまうと、西北の方になだらかな起伏を見せながら、ゆるい傾斜となっている。このような地形は何故生じたのであろうかという問題を、地質学の立場から次のように明快に解いている。そこで問題として採りあげているのは鹿野山の地形であるが、
「鹿野山の成因については、市宿砂層の浸水性が大きいために、地表を流れる水が少いので浸蝕されにくく、その結果高い山になったと考えることが出来る。このように解釈すると市宿砂層が北へ傾斜することから、鹿野山の北斜面はゆるい勾配であり、南は急崖となって滝の多い地形をつくるという対象がうまく説明できる。南側の急崖に露出するのは、市宿砂層の下にある国本シルト層で、これは透水性が少ないので、地表の流水を生じて浸蝕され、この急崖のふもとに複雑な谷をつくるのである」(2)
この文章の鹿野山を長柄町西北部の台地とし、市宿砂層を成田層群の籔層・地蔵堂層とし、また国本シルト層を笠森層と言いかえれば、よくこの長柄町の地形の謎を解くことが出来るであろう。長柄の台地にのぼると、うすい数十糎の黒い腐植土の下に赤褐色の土の層がある。これが関東ローム層とよぶもので、約一万年前以前を下限として、それ以前の数万年の間の遠い以前に、関東をめぐる諸火山が噴き上げた火山灰が、西風によって関東南東部に降りそそいだものだが、一万年間に一米の割合であるという。もちろん断続的でその間に、いくつかの薄い黒い層のあるのはこの火山灰のそそいだ後に、生えしげった草木が、再び降りそそぐ火山灰の為に枯れ腐植土となった事が、なん度かあったことを示すものであるが、この房総の地のローム層は、およそは富士・箱根の火山の噴き上げたものだという。
このローム層は、水分を含みやすく(含水比八〇―一八〇%)、また水を透しやすいことは砂に近い特徴があり、またこの下の成田層群も砂・礫の多い層で水を透しやすい。これに対して笠森層は、笠森観音参道の男坂の側壁をなしているのがそれで、この名称もそれから出たのである。この泥質砂層はこの笠森附近では、二〇〇米から二六〇米の厚さがあるというが、この地質は緻密で比較的硬く水を透しにくい性質をもっている。水の透しやすい地層と透しにくい地層との、どちらが水の浸蝕に対して強く抵抗するかというと、一見笠森層の方が強い様に考えられるが、この笠森層とローム層の堺が接する地域を見ると、笠森層地帯は浸蝕が甚しく、低く急な入り組んだ丘陵地帯となっている。
大地が水の浸蝕を受けるのは、主として地表を流れる水によるものだが、同量の雨が透水性のよい地帯と悪い地帯に降ったとすると、後者の場合には前者の場合よりも、はるかに多量の雨が降ったと同じ結果が生ずる。前者の場合には、雨水がみな吸い込まれてしまって地表を流れる水は僅かとなり、地表を浸蝕する力はずっと削減されてしまう。現在の谷の多い笠森層も田や村落の多い沖積層の地域も、古くは長柄の台地と同じ高さでつらなっていたのであるが、笠森層の地域が水を比較的に透さない地質であったので、地表を流れる水の為に浸蝕されて谷が生じ、複雑な地形となりその谷から流出した土が運ばれて沖積層を形成した。これに対して西北部の台地は、水を吸いこみやすい砂層である為に、地表を流れる水の量が少く浸されることが少い為に、高いなだらかな丘陵となって現在に至ったのである。(3)