「川の争奪」の現象

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この長柄町には地質のちがいが、川の流れを変えてしまったところもある。地質学の上で「河川(又は渓谷)の争奪」とよばれる現象である。笠森・大庭から流れを発して、一の宮町で太平洋にそそぐ一の宮川の上流である為に、水上村という名が明治の町村改制の時につけられたのであるが、この川の上流はかつては東京湾に注ぐ、養老川の一支流であったのである。市原市の川在(かわざい)から新巻(あらまき)を経て刑部に至る道をたどると、市原市側は土地が高く成田層群の上にローム層を被っていて、谷は浅くなだらかに山へ這い上っている。所によると谷には水がなく畑に利用されている。一番高い所が高星山である。ところが郡境までくると急に景観は変って刑部側は深い谷をなし、この谷の側壁を見ると笠森層であることが判る。
 かつてこの地域が隆起や、あるいは氷河期の海退(寒冷の為氷河が増え海水が減って陸地が多くなる)によって、地上に現われた時はほぼ一様に平坦であったのが、わずかな凹凸に従って水が流れ川となり次第に山と谷が出来上った。そのころは笠森・高山からの水は北上して、新巻のあたりで大桶川(養老川の支流)に流れこんでいた。ところが笠森層が浸蝕がはなはだしいので刑部で右折し、浸蝕の進んでいる一の宮川に注ぐようになったと考えられている。ある川の上流部分が他の川へつながってしまう、そのきりはなされた地点に「空谷」が生ずる。刑部から新巻道の市と郡の境がその「空谷」であることは、すでにいわれたことがある。(4)
 この様な長柄町の地質は、現在私たちの見るような地形をつくり上げたが、その後のこの地域にくりひろげられた大きな歴史の歩みを見ると、意外にこの地形に左右されていることが多いのに気ずくのである。(一)次にのべるようになだらかな洪積台地に、長期にわたる繩文文化が展開した事、(二)笠森層の広く長い谷に、弥生文化以後の稲作が発達しながら、広い洪積平地とならなかった為に、養老川沿岸のような大きな古墳文化を造り得る、有力な氏族が発達しなかった事、(三)笠森層の土質が精巧な横穴古墳群を発達させたこと、(四)中世に至っても大きな豪族を成立させず、小土豪の割拠に終ったこと、(五)これらの闘争の敗者がこの複雑な地形を利用しかくれすんだ事。いま思いつくままをあげてもこれらは、やはりこの地形の生んだことではなかったろうか。次にこれらの上に住んだ人のあとをたどりたいと思う。

 (1)『のびゆく房総』(昭三三年刊)所載の、与世里盛春氏の図による挿図を複写させていただいた。
 (2)吉川虎雄外四氏共著『新編日本地形論』一九二頁。
 (3)地層については、三梨昂・安国昇・品田芳二郎「千葉県養老川・小櫃川の上総層群の層序」(地質調査所月報一〇巻二号一九五九)、なお地蔵堂層・籔層については、中川久夫「地蔵堂層および籔層」(地質学雑誌六六巻・七七六号一九六〇)および、青木直昭「地蔵堂層および籔層について」(地質学雑誌第六八巻・第八〇四号一九六二)がある。
 (4)田山利三郎「房総半島の地形特に侵蝕面の対比について」(斎藤報恩会学術研究報告九・昭五)および藤原文夫「養老川の流路変遷の原理について」(南総郷土文化研究会誌四・昭和四〇)。