無土器時代の長柄

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この私たちの住む房総半島、ひいてはこの長柄の地にいつごろから人が住む様になったのか。その実年代は考古学者のなかでも、種々な学説があって大きな隔りがある。関東ローム層は赤土ともよばれる厚い地層で、約一万年を下限にした時代以前の長い間にわたって、富士・箱根系その他の火山の噴き上げた火山灰が堆積したものだが、この形成されるころには人が住んでいる筈はないというのが、長い間の考古学者の常識となっていて、発掘の時もこの層に達すれば、そこで調査を中止するのが普通であったが、昭和二四年に行商をしながらも、熱心に考古学の勉強をしていた相沢忠洋という青年が、群馬県の岩宿の路傍の崖の関東ローム層の中から石器を発見したことによって、この長い間の定説はくつがえされ、土器がなく石器だけを使った人類が、洪積世の終り火山活動のはげしかったころに、生活していたことがはっきりして来た。(1)
 以後今まで注意されなかった土器を伴なわない遺蹟が全国から発見され、六〇〇カ所近くもあることが知られるようになった。繩文式土器が使用されるころより前のものであったから、先土器文化とも先繩文文化ともよび、土器を知らない人類の文化であるから、無土器文化ともいわれる。この房総の地でも市川市八街町などで発見されている。『長南町史』で故江沢半氏が、「長柄町桜谷の丘陵で昭和四五年二月採集した石器は、剥片の縁辺を加工したナイフ型石器に似ており、他に黒曜石片は伴うが無土器であるところから、この種の遺品と推測される」(同書三一頁)と述べておられるが、これは役場庁舎下の当時麦畑(現在日吉農協倉庫)で、この稿筆者(永井)と同道の際採集したもので、同氏が急逝せられた為、いまこの小石器を実物について確かめることが出来ないが、その後研究篇(一)に報告せられているように、長柄山の亀ケ谷遺跡の地点から、数点の無土器時代の石器が採集せられているのであるから、この桜谷出土の石器も無土器時代の可能性は強い。
 実はこの発見された麦畑のすぐ上の丘が、昭和二二年日吉中学校新築の為に掘りくずされた時、地下およそ一米の所に、径一五糎から二〇糎の火に焼けた丸石が五六箇、相当量の炭と共に発掘され、いくつかの石片、黒曜石の破片があるにもかかわらず、その周辺からは土器が全然発見されなかった。当時の筆者はまったく考古学に関する智識がなかった為、不審におもいながらもそれらの一部を採集し、箱におさめて当時の日吉中学の資料棚に入れておいたが、その後中学の統合のために、他から出土した石斧・布目瓦(栃木薬師寺の寺名のある)・土器などと共に、行方不明となってしまった。
 今日に至って考えて見るとまことに残念でならない。この長柄の地は石がない土地であるから、今後とも石片など発見の時は、それは必ず他の地方から人間が運んで来たものであり、あるいはそれが遠い昔のこの土地に住んでいた人のことを調べる手がかりとなるかも知れないものであるから、大切に保存し教育委員会などに報告していただきたいと思う。
 さてこの長柄町にも、この先土器文化の時代から人が住んでいたということは、亀ケ谷遺蹟の調査によって実証することが出来るが、その実年代はいつごろであろうか。現在新しい方法として放射性炭素の測定による年代決定の方法がある。放射性炭素は、上層気流の中の窒素と宇宙線との作用によって生じ、二酸化炭素と結合してつねに空気中に存在している。また動植物は生きているあいだはつねにこの放射性炭素の吸収と分解をつづけ、体組織のうちに一定の含有量をたもっている。この生物が死ぬと放射性炭素の吸収作用はとまり分解作用だけがおこなわれる。この分解し減少していく速度はどの生物でも一定している。つまり生命を失ってから、最初の5563±30年間に生前保有していた放射性炭素の半分が消滅し、残りの半分はつぎの5563±30年かかってなくなる。そのまた残りの半分が分解してしまうのにもそれだけの年数がかかる。
 このような経過で放射性炭素は、生命を失った生物の組織から消えていく。これは地球上のどこに住んでいる、どんな生物でも同じであるといわれている。従って、もと生物であった木とか貝とか木炭などの発掘物の現在残っている放射性炭素の量を知り、この半減の速度を計算することによって、このものが何年前に生命を失ったかがわかるわけで、(2)このことから判断して先土器文化から、繩文文化に移行するころの年代は、一万年ぐらい前ではなかろうかとされている。ただしこの方法に疑問をもちこの方法は特に時代がさかのぼるほど、不確実ではなかろうかとする立場をとる学者もある。
 例えば先に述べた岩宿文化層の年代も、最も古く考える芹沢長介氏は、三万年に近くまで年代をさかのぼらせて考えているし、土器文化の発生を一万三千年前と推測している。それに対して山内清男氏説では岩宿文化を約七千年前とし、土器文化の発生を四千五百年ぐらい、あるいは古くても五千年ぐらい前ではないかと考えている。これはもっとも長期の編年観に立つ学説と、短期にそれを見る両極端の学説で、その他この中間のさまざまの編年を考える学者もあり未だ定説はない。(3)亀ケ谷遺跡発掘を担当して下さった佐藤達夫氏の説も、この山内説に近いようであるが、ともあれこの長柄には少くとも五千年以上も前に、土器を作ること使うことを知らなかったころから人が住んでいたのであって、さらに新しいこのころの遺物・遺跡が発見される可能性があることを、くりかえし強調して次の繩文土器のころの長柄を考えて見たい。