畑の中などから拾いあげた土器の破片をみると、繩目の模様のついたものがある。まだ乱されていない深い土中から出た場合、一ケ所にまとまっている破片をつなぎ合わせて見ると壺や鉢など、もとの形に復元することが出来るが、これらの土器も発掘された土地によって、形も紋様にも多種多様の変化があり、現在では考古学の進歩によって、その紋様や土器の形、土器の焼き方によって、大体その年代の前後を推定することが出来る。前に述べたように、この繩文の時代を一万年以上前から始まったという説と、五六千年より以上に古くは考えられないとする説があるが、両説もともにその紋様手法の変化によって区別し、年代的に前後を配列するその順序についてはほとんど差異がない。
その年代を草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に六期に大別し、また特色ある土器はその発見報告せられた地名を附してよび、新らたにその地とは異った地点で発掘された場合でも、特色が同じであったならば、同様にその地名を附してよぶのである。また別にその製作技法や特殊な型によっても名づけ、それらの発達の段階についても考古学者の間では、ほぼ一致した見解が行われている。また同じ所から出土した時でも、地層の上下(すなわち下層の方が古い)によって、番号を附しさらにそれが研究が進むにつれて、細分化した符号がつけられる。
考古学の調査に際しては出土の土器が、この各型式のいずれに属するか、また異った新型式のものであるかを判別しなければならない。この長柄町においても、早くから繩文土器が存在することは知られており採集した人も多いが、これらの型式による分類をして学界に報告したものは、いまだ管見に入っていない。これは単なる歴史趣味にもとづく蒐集にすぎなかったからで、『千葉県史料(原始古代編上総国)』(昭和四二年刊)も、全く長柄町の遺跡については触れていない。