長柄山の縄文土器

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昭和五〇年四月の佐藤達夫氏を中心とする、亀ケ谷(長柄山)の発掘はこの点劃期的なものであって、ここから出土した土器は、すべて現在成城大学考古学研究室に依託されていて、なおその調査整理が続けられており、この研究篇の報告はその概要であるが、いかにこの遺跡が重要であるかを、私たちによく教えてくれた。
 この指呼の間に点在する台地遺跡より、無土器の時からさらに降って五千年以上も前の時代から、およそ三千年以上にも及ぶ間の繩文の六つに別けた、各時代の土器が出土している事は、このせまい範囲の土地に、意外なほど長い間断続しつつも人が住み、生活していたことを私たちに教えてくれる。また同一地点から異った型式に属する土器が出現していることは、何回もこの地点が年代を異にしてくりかえし住居となっていたことを、まざまざと示してくれるのである。くわしくは報告によって見て頂きたいが、その中の「長柄町先史時代遺跡地名表」に示された各型式の土器を、「繩文式土器編年表」(4)に拠りながら、各期に配置して読む人の理解に便ならしめたいと思う。
 早期 田戸上層式。子母口式。鵜ケ島台式。茅山式。
 前期 関山式。黒浜式。諸磯a式。
 中期 五領ケ台式。勝坂式。加曽利E3式。同E4式。大木7a式。
 後期 称名寺式。堀之内Ⅰ式。加曽利BⅡ式。同BⅢ式。曽谷式。安行Ⅰ式。
 晩期 安行Ⅲa式。姥山式。大洞C2A式。

 特に草創期については、「草創期最終未段階の新型式と見られる撚糸文をもつ土器」が追分第六地点にあることを報告しているが、これは従来他地点で発見せられていない型式で、まだ研究上未解決の点の多い先土器時代から、繩文時代への問題を解く重要な資料であることを、私たちに教えてくれている。これらの型式名を付した土地の若干をあげるならば、
 田戸(横須賀市公郷町田戸)子母口(川崎市千年町根方字子母口)鵜ケ島台(三浦市初声町鵜ケ島)茅山(横須賀市佐原町茅山)関山(埼玉県南埼玉郡蓮田町関山)諸磯(三浦市三崎町諸磯)五領ケ台(平塚市広川五領ケ台)勝坂(相模原市勝坂)加曽利(千葉市加曽利町)称名寺(横浜市金沢区金沢町)堀之内(市川市北国分町堀之内)曽谷(市川市曽谷築地)など、ほとんど貝塚の所在地であり、これはまず貝塚(食料とした後の貝の堆積)が、遺物をよく保存している為に研究対象として発掘し、その地の出土土器の呼称して採り上げられ、そこからは土器以外の生活関係の遺物も多く発見されたのである。
 繩文時代の海進がもっとも進んだのは前期のころだといわれているが、房総の場合は深く入江のように海が入りこみ意外なほど奥の方に貝塚があり、そのころの生活のようすがうかがわれるのであるが長柄の場合は貝塚は存在しない。しかし、以上の様な周辺の海辺でつくられた土器と型式を同じくするものが、この長柄の台地に発見されたことは、そこに何等かの交渉影響があったことが推測される。以上の各型式の前期以降のものは、隣接の長南町または茂原市でも発見報告せられており、(5)この長柄からかつて上野および中野台から、打石斧、磨石斧および石棒の発見があったというが、さらに道脇寺・中野台にかけて台地の多くの地点からの発見が予想される。
 また亀ケ谷以外はその調査のうち、数日を利用して行ったもので、「従って地名表で明らかにした二二ケ所の遺跡は、町内に存在するであろう先史時代遺跡の一部を発見したにすぎない。しかし、その遺跡の中には、繩文時代中期・後期の大遺跡が含まれ、あるいは、土器型式研究に新型式を設定しえる資料、無土器時代石器群の発見等、多くの重要な問題を含んでいる」と、報告の執筆者戸田哲也氏が言われたごとく、今後の研究が大いに期待せられる地域である。