これらの土器を造りあるいは石器を使用した人たちは、漁労と狩猟及び自然の植物性食糧を採集していたのであって、まだ農耕は行われなかったものと言われている。あるいは後期以降はわずかではあるが、原始的な農耕が行われたのではないかという提説(6)もある。まだ断定するだけの資料、たとえば穀類そのものは出土していない。長柄の遺跡(亀ケ谷)からもクリ・ドングリ・クルミなどが、炭化してまとまって出土している。貯蔵していた所が火災かもしくは他の原因で焼けた為に、腐ることなく原形をとどめていたのであろうと見られているが、この山野に豊かな木の実は主要な食料であった。この集めた木の実などを、石皿とよばれるすり臼の上ですりつぶし粉にし、それをかためて焼いて食料としたものが、発見されているところは他にもあるが、その石皿が長柄町でも発見されている。
皿木の三島神社と針ケ谷の針谷寺境内の八幡社の中に、共に御神体の一つとして安置されており、その出土地点時日ともに不明である。昔の人は人里はなれた土の中からこれらが出現したとき、人工の加わった不思議なものとして、あるいは遠い神代に使われたものとして、畏怖の念をもって神社内に奉安したことが推測される。またこの針谷寺の八幡社には石棒も共に安置されている。これは男性の象徴で、まつりの場で人と動物の繁殖がいのられたのであろうといわれている。
石棒は弥生時代になっても製作されているが、この周辺に弥生式土器の出土する地がないから、おそらくは背後の長柄山台地開墾の際の出土ではないかと推察される。また土を焼いてつくった女性像も、かつて亀ケ谷から出土して故内田邦彦氏が採集せられている。(7)普通は五体満足ではなくばらばらにこわされていて、これは産育の信仰に関係があるといわれているが、かつて拝見した記憶では、顔も乳房のゆたかな胴体も完全であったことを記憶している。後の人形のような玩具ではなく、当時の人びとの敬虔な信仰の結晶であったのである。