今回の調査でも住居址の発見がなかった為に、当時の生活をたどることの出来る遺品の出土は少なかった。もしこれが貝塚であったならば多くの遺品が腐ることなく、あるいは人骨までも発見出来たのであろうが、土に埋もれたものは数百年を経れば、全く影も形もなくなるのであって、いま長柄の場合は出土品から、当時の生活をくわしく知ることは出来ないのは残念である。また多くの人たちから受けた質問は、「ここに住んでいた人たちは私たちの先祖であろうか」ということであったが、この私たちを現在の長柄町居住の人とするならば、これには残念ながら否定的な答が出てくる。
このころは後の弥生時代以後のように稲を生産生活の中心とし、そのために一ケ所に定住する様になったころとちがって、狩猟と採集が生活の手段であった為に、その食料資源の採集が限界に達した時や、自然の災害を大きく受けた時などは、集団的な移動を余儀なくされたのであって、権現森・追分・亀ケ谷・美佐子台にかけての台地に、短かく見ても四千年に近い期間、ここに多くの土器をのこして行った人たちは、みな各時期ごとに異った人たちが、前の時期の住民とは関連なく、この地に住んでいたと考えなければならない。七十年以上前の明治初年からこの一帯が開墾されて以後、くりかえし耕作が続けられて来た為に、各時期の土器が混合してしまったが、もし現在未墾の地から土器が発見された場合、丁寧に観察するならば時代の新しいものから、深く掘るにつれて古い時期のものが出現する筈で、今後のこの地域の道路工事などでは、一片の石片や土器片であっても、大切に扱かって慾しいと思う。
ともあれ先土器の時代から始まって、繩文の各期の人々がくりかえし、この台地に住居をしめていた事は、この地が生活しやすい地であったことを語っている。ではここに住んでいた人はどんな人であったろうか、かつて考古学の初期の段階では、繩文土器の使用者は日本人ではなく、他の人種(例えばコロポックルなどという仮空の人種)であると考え、あるいはアイヌ人と同種で、それは先住民族であったと考えた時もあったが、これは今日では否定されている。「石器時代でも先土器時代といわれるきわめて古い時期に、すでに日本人の基礎があり、繩文式土器が発達した当初に、新しく移住してきた人々もあって、日本人に一歩近い人ができた。繩文文化の終わりのころに原始日本人ともいうべき型が現れ、弥生式時代に入ってさらに大きな変化をとげた」(8)という、鈴木尚氏の見方が妥当であろうが、石器時代がまったく混血もなくそのまま続いたならば、今日のような日本人は生まれなかったのではあるまいか。
日本人は石器時代という遠い昔から、長く続いてここまでくる間に、大陸からきた人びとと混血したりして、しだいにこのようなすぐれた民族になったに違いないと思われる。(9)なお三世紀または四世紀の初めから、その後半にかけて発達した、古墳文化の時代をきずいた日本の有力な人びとも、もとは大陸から朝鮮半島を経て、日本に侵入してきたのであって、これらの人びとが、中国の東北部で武勇をもって知られ、馬に乗ることを常習としていた胡族を迎え入れたのであって、この騎馬民族である外来民族は、日本の原住民族を征服した。この様な外来民族系の勢力と任那(みまな)とによる、倭韓連合の国家が北九州に成立し、この連合国の王が大和に進出して、崇神天皇となったという説がある。(10)
騎馬民族征服説とよばれ、学界に大きな話題をなげかけたが、必ずしも承認された説とは言いがたい。大陸からの移住者は多くその流入した文化が、日本を大きく変えて行ったのは事実だが、そしてそこから弥生式土器やそれに伴う文化が、繩文の世界をゆさぶり変化させたのは事実だが、これを一民族が武力による征服とは考えられない。ともあれずっとあとの記録に見えるだけでも、この上総には多くの大陸の移住者があり、またこの上総の人たちが強制的にいまの東北地方に移住させられており、私たちの血には多くの混血が行われて来たことには誤りあるまい。