繩文時代の終りのころ北九州のあたりに、今までとは全くちがった文化が大陸から入って来た。それは銅や鉄器をもった農耕文化であり、食生活を全く一変せしむる稲作りが始まったのである。
明治十七年(一八八四)三月二日、東京市本郷区当時の向ケ丘弥生町の貝塚から、繩文とは異る壺が発掘された。以後その地名をとって同型式の土器を、弥生式と名づけるようになった。またこの土器を使用した時代を弥生時代といって、次の古墳文化の時代に続く一時期とする。およそ西暦前三〇〇年から西暦後の三〇〇年、すなわちおよそ六〇〇年ほどの間である。この期を前・中・後の三時期に区分して、考古学者は考えているが、各期を二〇〇年とする説と、前期(前二〇〇年―前五〇年)、中期(前五〇年―後二〇〇年)、後期(後二〇〇年―後三〇〇年)とする、すなわち、前期を一五〇年間、中期を二五〇年間、後期を一〇〇年間とし、その全期間を五〇〇年とする説があるが、現在は後説を採る学者が多いようである。
この土器はどの様のものであったろうか、繩文式土器は黒褐色のものが多く、複雑な装飾や文様があり器の形も多種であるが、これに対して弥生式土器は赤褐色で、文様は無いかあっても幾何学的な簡単で、器形もかめ・つぼ鉢・高杯(たかつき)の四種にまとまっていて、この赤褐色であるということは、土器を焼く熱が高いことをあらわしている。
この二つの土器の形式の差異を、かつては使用民族のちがいと考え、アイヌ民族の使用したものが繩文式で、日本人の使用したものが弥生式であるという説が、昭和の初期まで信ぜられていたが、それは誤りである事が明確となった。また日本周辺の朝鮮や中国などからも、弥生式土器と同質のものは発見せられていないという。進んだ文化をもつ大陸の人々が、弥生式土器を日本にもたらしたのではなく、その人々によって伝えられた文化に接した、繩文末期の人々が新しい工夫を加えて、この土器を造りはじめたと考えられている。