この土器の発生と共に、日本に従来無かった稲作がはじまった。この稲の伝来の経路には、(一)朝鮮半島を経由。(二)中国南部の海岸から黒潮にのって、九州南部・四国・本州の太平洋岸に到る。(三)台湾・沖繩の南島を島伝いに来る。(四)中国の江南地方から、対島海流にのって北九州や朝鮮半島の南部に伝わる。という説があるが、稲の品種にはインド型(粒が長くてねばりが少い)と、日本型(粒が短円形でねばり気がある)の二つがあり、日本型は揚子江下流々域や朝鮮南部に多い点から、前掲の四つの経路のうちの第四の説が有力だと見られているが、周辺の諸国の考古学の遺蹟の調査の進展をまって、さらに考えねばならぬといわれている。
ともあれ最初の弥生式土器や稲は北九州に始まり、急速に東方に伝わったことには間違いはないであろう。この新しい稲作をもたらした人々は、明らかに海外からわたって来た事は明らかだが、その数はあまり多くはなかったと考えられている。この新しい稲作を中心の農業の伝来は、今までの狩猟・漁業を主とする採集経済から、水稲農業の生産経済へと大きな変化を、日本の社会にもたらした。もちろんただちに米中心の生活になったのではなく、初期の稲作技術は未熟であるし、水田もただちに全ての生活を支えるほど、広くつくられたわけではなく、狩りや漁業と並行して行われたのである。稲作は食糧の生産性の高さおよび、保存性のすぐれていた事により、稲作の採用が社会に繁栄がもたらす事を知ると共に、その流布する力は強かった。
特に繩文中期から始まっていた海退現象(海の水が減る作用)により、大きな川の下流には低湿地が広がっていたが、いままでほとんど足を踏み入れなかったこの平地が、水稲耕作に適していることを知ると、森林地帯や海岸の干瀉・荒磯の周辺の生活から離れて、この平野地帯が新しい生活の場となって来た。