この新しい稲作の伝来は、単に生活の場が変化したばかりでなく、人口の増加に伴い社会の構成が変わり、人間の精神のもち方までが、全く従来と異らざるを得なくなって来た。今までの採集経済では獲得する周囲の食料の事情によって、移動せざるを得なかったので一ケ所に定住せず、かつ多人数の集団生活を営むことが出来ず、食料の貯蔵が不安定であったが、稲作は定住を必要とし、その収獲物を保存することによって四季共に生活が安定し、かつ集団の家族数の増加は、また水田耕作の増加を可能にすることから、人口が増加することとなった。
また動物を相手とする狩りや漁りの生活では、行動の敏活、脚力・腕力が何よりも大切で、えものを捕えるには一瞬の集中力が決め手となる。毎日の行動が積極的で変化する周囲に対する対応力が必要であるが、水稲農業に要求される能力はこれらとは全くちがって、泥田の稲を守るための辛抱強い世話であり、まいた種は六ケ月以上経たねば収獲出来ず、一度水田をひらいたその土地からは離れられず、その場所に代々住みつく事となり、このことは現代に至るまで日本人の生活を規定し、日本の文化を特色づけて来たのである。
そしてこの弥生文化は急速に東に進んで、およそ一〇〇年間で西日本を覆い、伊勢湾附近まで到達している。さらに東への進出は中期に入ってからで、このおくれは自然条件が西日本ほどは稲作に適しなかったことも原因の一つだが、東日本ではさらにサケ・マスなどの収獲によって、食料にめぐまれた故ともいわれているが、中期すなわちおよそ一世紀の初頭ごろ、二千年前には関東地方にも弥生文化がおよび、稲作が普及しはじめて住民の定着が始まったと推測される。